釣り人のための水辺の環境学。小さな命の大切さを原理として釣り人の自由を守る兵法書です。






検索フォーム



最新記事



月別アーカイブ



リンク

このブログをリンクに追加する



プロフィール

Author:NPOミズベ
文◎升秀夫、吉田幸二
文と構成◎金澤一嘉

升秀夫(ます・ひでお)
1955年東京都杉並区生まれ。京都市下京区在住。
日本獣医師会生涯研修認定獣医師。専門は獣医臨床/医動物学。筑波大学大学院/医学医療系助教。湘央学園非常勤講師 (小動物外科)。環境省浄化槽フォーラム理事。NPO水辺基盤協会副理事長。
著書『うちの子がわたしを看てくれる/動物介在看護』など多数。セラピードッグプロジェクトとして医療現場での伴侶動物の役割を研究。

吉田幸二(よしだ・こうじ)
NPO法人水辺基盤協会理事長、W.B.S.顧問。
1951年東京都文京区生まれ。茨城県霞ヶ浦在住。1984年からプロアングラーとして活動。1987〜89年の計3回、B.A.S.S.メガバックストーナメント参戦(フロリダ州)。アメリカで経験したトーナメントを参考にして、1990年霞ヶ浦でバストーナメント団体W.B.S.を設立。多くのプロアングラーを育成。この間に釣り場の清掃活動をスタート。2004年にW.B.S.の運営から退き、2005年にNPO法人水辺基盤協会を茨城県の認定を受けて設立。釣り場の清掃活動「53 Pick Up!」を全国展開する。

金澤一嘉(かなざわ・かずよし)
編集記者。1970年東京都葛飾区生まれ、千葉県印旛沼水系在住。
つり人社月刊バサー編集部、ほぼ日刊イトイ新聞を経て、月刊バサー誌のフリーランス記者として企画取材活動の日々。このブログの管理人。下のメールフォームから管理人に送信できます。



メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


まえがき
日本の生態系って何? 在来種、外来種って何?
高度経済成長と日本列島改造論を経て
石油を消費する便利で快適な生活を手にした今の日本に
古来からの自然(生態系)は残っているのか?
水辺と歴史を旅しながら考えていくブログです。

(このブログは月刊バサー誌に掲載したテキストをもとに再構成しています)


スポンサーサイト

第12回 日本の環境論は稲作正義論
●自然を管理したいという思想

「日本人はいつから、四角い田んぼが好きになってしまったのでしょう。釣りも田んぼと同じではないかと思うことがあります」

吉田さん、それはどういうことですか?

「ひたちなか市埋蔵文化財調査センター所長(役職はバサー誌掲載当時)の鴨志田篤二さんが、僕の手に乗せてくれたアウトバーブのフックが教えてくれたのです。たぶん先住の日本列島人は釣り場所を選ぶことが上手だったと思います。魚もたくさんいたでしょう。ところが、いつのころからか、稲作民族の習性というのか、ある場所にいる魚を根こそぎ上手に釣るのことが、釣り文化になってしまった気がします。関西ではハコと言うのですが、決まった座席に座り、決められた長さのサオで、同じような釣り方で自分が振り込める水面の広さが決められていて、与えられた面積から数多くのヘラブナを釣りあげることを競うのです」

つまり、領主に与えてもらった水田から、いかに多くの収穫を得るか……、優秀な百姓とは限られた面積の土地から大地の恵みを徹底的に絞り出せる人のことです。

「現代の日本の釣りの優れた部分は、そこにいる魚を根こそぎ釣る技(わざ)が卓越していることです。しかし、広大な場所ではどこに魚がいるのか探すことが苦手のような気がします。自分で探そうとしないで、人に教わり、雑誌やテレビの情報で釣れると言われた場所に行き、そこにいる魚を根こそぎ釣ることを競い合うような釣りも多いです。自分で魚がいる場所を探すことが釣りの醍醐味であるのに、それを放棄してしまっている部分があります」

しまいには、アユみたいに養殖魚を放流して、これを人と釣り競う、河川の釣り堀化ですね。私(升)が思うには、水産学が発展したら漁師の漁は「根こそぎ漁」になってしまった気がします。農学栄えて農業滅びると農学部の先生は言いますが、無責任だと思います。水産も日本の根こそぎ漁法の開発が海外から批判されたから栽培漁業になっていき、農学のような栽培手法が漁業に浸透したら海がだめになってきました。

水産学の先生たちは分子生物学に活路を見いだして、水産物から抗ガン剤とか酵素剤が得られないかとか、免疫賦活剤、抑制剤までやり始めたら、各地で漁協がつぶれ始めました。水産学部は海や川を放り出して薬学部とか医学部のお先棒を担ぐことで自分たちの食い扶持を守っています。農学部も同じかもしれません。水棲生物を研究する理学部の海洋研究も同じだと感じます。

川や海のことを考えなくなって、田畑に立ったこともない農学の先生、漁労をしたことがない水産学の先生がいます。マグロの養殖に成功して喜ぶ水産大学がありますが、エサはどうするつもりなのでしょう。よもや肉骨粉とか農薬づけの穀物をイワシのミンチに混合して与えてはいないでしょうが……。

マグロの家畜化は海の牧場化ですから、こんなことは生態系の常識のぶち壊しですよ。ヒトとは関係なく自由に生きている生物たちの行き場がなくなってしまいます。海そのものが釣り堀になりヒトに役立たない生物は雑草扱いされてしまいます。日本人は自分たちの価値観に見合わない生き物は、雑草と同じように扱う悪いクセがあります。害虫とか害魚論の発想は自然を管理したいという無意識の傲慢であり、悪意を感じます。自然はヒトが管理するものではありません。自然はあくまで自然です。


●律令制から始まる管理体制

「升さん、日本人が大好きな管理は、いつごろから私たちの身体に染み付いたのでしょうか?」

645年の大化の改新(飛鳥時代)から、701年に大宝律令が制定されたころまでに、日本列島の各地に60以上の国がつくられました。各国に国府(役所のある都市)を置いて、国司を派遣して管理体制をつくりました。701年の大宝律令によって国司の強い権限で「戸籍の作成、田畑の支給、税の徴収」が行なわれ、この管理体制によって日本という国になったと考えています。都は奈良の平城京(710〜784年)でした。

律令制は中国大陸からの輸入品です。そもそも、日本人の多くが海外各地から移住してきた民族です。古代の日本は多民族ですから、人々をまとめる(支配する)ことは難しかったでしょう。手荒に武力を使い、律令制を導入して、仏教で縛ることで統治を進めたのです。

こうした管理意識は差別を生みます。管理は差別の母です。では、差別の父は何か? それは、あらゆる相手への支配意識です。


●琵琶湖の総合開発

支配意識といえば、滋賀県は支配意識により、琵琶湖という大切な水源地の始末を、1兆9000億円をかけた琵琶湖総合開発(1972〜1997年)などで悪くしてしまいました。その不始末をごまかすために、外来魚だ、コンクリート護岸が悪いだのと、問題の本質をすり替えてきました。京都人が滋賀県知事のやってきたことの本質を見抜いたら、滋賀県に人口抑制と近江平野から工場の立ち退きを要求するでしょう。でも、いまの滋賀県にその価値観を受け入れる余裕はありません。産業からの税収を得ないと滋賀県市町村の公務員や議員は干上がってしまいます。

「では、霞ヶ浦はどうでしょうか」

もともと海だった霞ヶ浦をいつか淡水化する、という思考の方向性は、律令制によって稲作を指向する日本人が続けてきた伝統です。日本のいたるところにあった潟は埋め立てて陸地化したり、干拓によって淡水化して、潟の水辺に水田を広げました。

そのなかで大きく変化したのが、秋田県の八郎潟です。八郎潟の干拓工事(1957〜1977年)は日本で2番目に大きな汽水湖を、水抜きして陸地(田畑)化した超ヘビー級の環境破壊です。千葉県では椿湖が埋め立てられて八日市場市ができました。

琵琶湖は内湖と呼ばれる内湾を埋めて造った水田で近江米が生産されています。日本にとって、淡水、汽水域の魚やエビのことよりも、とにかく米を増産することが、国が正しいと認める政治上の方針なのです。


●稲作が正義

皆さんが釣りをする野池は稲作のためのダムです。空海の功績だと伝えられる香川県仲多度郡の満濃池は周囲が20kmもある湖ですが、稲作のための灌漑が目的の人工物です。満濃池は自然で、長野県のダムは自然破壊だという根拠は何なのでしょう。ヒトが人力で造った池は自然で、ブルドーザー、シャベルカーを使い、コンクリートで固めたダムを建設したら環境破壊なのでしょうか。稲作をして水田由来の生物が多様になったら環境回復で、休耕田が木々に覆われて水田由来の生物が消えて森の動植物の生息域に変化することは悪いことなのでしょうか。

過疎は悪いことなのでしょうか。ヒトが都市に一極集中することは、地方ではヒト抜きでの自然が回復していいことのような気がします。現在の風潮では、稲作による生物多様性で構築される里山の食物連鎖だけが正しい環境論のようになっていますが、稲作民族よりはるか昔から日本列島にいる先住日本人からしてみれば、ツブラジイやスダジイなどブナが生い茂り、汽水の水辺が本来あるべき環境です。主に狩猟採集で生きて、稲作はあまりやらないで、椎茸とかせいぜい麦を作付けする狭い畑があればよい。

「つまり、日本の環境論はなんだかんだ言っても結局は稲作論にすぎないということですね」

はい「稲作が正義」論です。米作り至上主義が国民に染み付いています。日本は瑞穂の国だそうです。だから茨城県石岡市にある常陸国府の跡地は、霞ヶ浦の水辺における、その価値観の前線基地だった思っています。

「もし八郎潟(八郎湖)や霞ヶ浦でバスを排除すると言い始めたら、そもそも日本人の環境の観念に勘違いがあるわけだから、八方破れなことになってしまうのですね」

はい、要するにバス釣りをするヒトを水辺から排除することが主な目的でしょう。それを直接言うと、釣り人の思想信条の自由、職業選択の自由、行動や言論の自由を制限することになります。だから、バスを排除するための環境論をかつての攘夷論と同じように作り上げて、明治維新のときのように世論を盛り上げる。それがうまくいけば、バス釣りをする先住日本人のような管理しにくい人種を水辺から排除することができます。

「升さんの行動パターンや考え方は、先住日本人の遺伝子からきているのですか?」

いいえ、私は笵蠡(はんれい:中国、春秋時代の越の功臣)を私淑していますから、私の祖先は越の難民だと思っています。孔明ら漢民族が蛮族と呼んだ南方海洋民族ではないかと勝手に感じています。

「僕(吉田)の容姿はどこから渡って来た遺伝子の表現かわからないけど、愛犬ジャッキー(ゴールデンレトリバー)を連れて水辺で狩猟しながら、沿海州と北米を行き来していた3000年前のツングース民族のような気がしています。ということは、南方から渡って来た稲作民族の升さんとは仲よくなれないはずです。僕と升さんの遺伝子は大昔の日本列島でお互いの自由を守るために戦っていたかもしれない」

その戦いは、たぶん吉田さんが勝って僕を殺したでしょう。それとも僕の知略にはまって吉田さんは東北に追いやられたかもしれません(笑)。

「大昔にお互いの祖先が戦っていたとしたら、すごくうれしいねぇ。2000年以上の年月が流れてお互いの遺伝子が霞ヶ浦の水辺で巡り会ったわけだから。さあ升さん、次はどこに行きますか?」

茨城県石岡市にある常陸国府に行きましょう。私のような稲作民族が、吉田さんのように稲作の道徳に逆らう不良たち(先住の狩猟民/現代のバス釣り人)を追い払うための前線基地が常陸国府です。




第11回 日本列島の釣りに4000年の歴史あり
●アウトバーブの釣りバリ

日本列島にヒトが生きるようになったのは、縄文時代(紀元前1万4500年〜紀元前1000年)からだとされてきました。しかし、各地で石器が出土して、旧石器時代の約3万年前から先住民がいたことがわかってきました。その先住民から脈々と培われてきたのが、生きる手段のひとつである魚釣りです。

先住民から僕らに受け継がれた日本の魚釣りは、中国よりは歴史が浅いけれど、3500〜4000年の歴史があるそうです。先住民によって磨かれてきた技を伝え残すことも私たちの仕事だと思います。

茨城県ひたちなか市にある「虎塚古墳」のとびらを素手で開け、九州から常陸に渡って来た豪族たちの営みを発見した人がいます。「ひたちなか市埋蔵文化財調査センター」所長の鴨志田篤二さんです(役職はバサー誌掲載当時のもの)。

霞ヶ浦の周囲には、古墳や貝塚などが多数あって、貴重な資料がたくさん出土しているのです。「埋蔵文化財調査センター」所長の鴨志田さんに会いに行き、涸沼(ひぬま)から霞ヶ浦にかけての埋蔵文化財について教えてもらい、霞ヶ浦の釣りの歴史を探りたいと思います。

まず見せてくれたのが、数千年前に実際に使われていた骨角製の釣りバリです。遠い過去の人が骨や角で手作りした釣りバリを掌に乗せたとき。吉田さんの身体に電流が走り、数千年前の釣り人の魂が体内に宿ったような不思議な気持ちになったそうです。
DSC_8078b.jpg
「1982年に僕(吉田)がバスプロ宣言をしたときも、自分が生まれ変わったような気持ちになったけど、骨角製の釣りバリを手にしたときも、数千年前にこの釣りバリで魚を釣っていた釣り人が確かに生きていたという感動がありました。その男性はこのハリで釣った魚で家族を養っていたと想像します。そこには生きるよろこびがあったはずです」。
 
ハリをよく見ると、アウトバーブになっています。アウトバーブはなんと3500年も前に日本で作られていたのです。ハリのサイズもさまざまあり、対象魚に合わせて作り分けていたのでしょう。埋蔵文化財調査センターには、全長21mmの小さなハリから、85mmの大きなハリまでありました。アウトバーブより昔、約4千年前には、内カエシのついたハリが存在していたとのこと。私たちは4000年前の茨城にいた釣り人を尊敬します。

人類の歴史の99%以上を占めるのは、飢えに直面する狩猟採集社会です。釣りバリに創意工夫の知恵が見られるのも、生き延びるために食糧を確保する必要に迫られてのことでしょう。


●内カエシからアウトバーブまでの500年を考える

吉田 鴨志田さんが説明してくれたように、旧石器時代の日本には、北からも狩猟民が南下してきていたんですね。

升  はい。旧石器時代のヤジリなどの石器は北海道の日高山脈でしか採掘できない黒曜石で作られています。それが群馬県の岩宿で相沢忠洋さんという研究者によって発見されたのです。つまり北海道と人の行き来があった。

また、南からもサヌカイトと呼ばれる讃岐石を使った石器を持ったヒトたちが北上していました。静岡県沼津市からは彼らが獣を追い落とすための巨大な落とし穴が見つかっています。

南北2つの方向から来たヒトたちは、ちょうど関東から静岡あたりで交流があったはずです。霞ヶ浦がまだ海だったころの話です。きっと言葉は上手く通じなくてもいろいろな物や技術を交換したと思います。釣りバリ、ライン、釣りの情報交換を霞ヶ浦の水辺でもやっていたはずです。
DSC_8125b.jpg
吉田 この釣りバリが作られてから3500から4000年の時が流れても、彼らと僕らはやっていることが基本的には変わってません。日本では四千年前にも釣りが盛んで、60cm級のクロダイや、1mオーバーのシーバスを釣りあげる凄腕もいたんじゃないでしょうか。

升  釣りは女性の日課だったと推測する学者もいます。男たちは山に狩りに行き、女たちは木の実集め、質素な農作業、そして釣りです。男たちが獲物を捕れなくても、家に帰ると母ちゃんが釣った魚や、炊いた木の実で夕食の団らんです。

吉田 4000年前の内カエシのフックから、3500年前のアウトバーブのフックまで500年の開きがあります。2005年の500年前は1505年ですから思えば大昔ですね。

升  500年前といえば、ヨーロッパはルネッサンスで、巨匠のレオナル・ド・ダビンチとミケランジェロが活躍していました。日本は応仁の乱の後で、世の中が乱れていました。戦国時代の直前です。大昔ですね。

内カエシのフックからアウトバーブのフックが出現するまで500年を必要としたと考えると、とても緩やかに技術が発達しているといえるでしょう。私たちは急ぎすぎているのかもしれません。アウトバーブのフックが3500年前に日本列島ですでに使われていたことにも気づかなかった始末の悪さです。
DSC_8128b.jpg


テーマ:博物学・自然・生き物 - ジャンル:学問・文化・芸術


第10回 足尾・渡良瀬(5)外来種で山の緑を再生
坑道を見学する

銅山の坑内は、薄暗い電球に照らし出され、壁や天井から地下水が染み出し、とにかく狭い。腰を屈めて進むうちに、無意識から恐怖がわきあがってくるのでした……。

「升さん、こえれは怖いですね。閉所恐怖症の人には坑道は無理ですよ。いま巨大地震が来たら崩れるんじゃないの……」

ここは金属の鉱山なので、石炭の坑道に比べると落盤は起きにくいし、火災も少なかったと思います。石炭の炭坑は天然ガスなど着火しやすいガスが出てくるし、石炭の粉も燃えやすいので事故のリスクが高かった。

足尾の銅鉱石から出るのは金、銀、プラチナです。石炭を黒いダイヤと呼ぶのとは違って文字どおり金目のものです。

「金目のものが出続けたから360年間も鉱山が続いたわけですね。石炭は燃やしたら終わりだけど、足尾から掘れるのは未来永劫使われる金銀銅です。僕が子どものころは、炭坑で落盤事故や火災やガス中毒の事故が起こりました。そして、坑内の火を消すために地下に坑夫が残っているのに坑道を閉鎖して酸欠にしたり、水を注入するという悲劇があり、テレビのニュースでは坑夫の家族が泣き叫ぶ姿が報道されていました。だから鉱山には恐ろしいイメージがあるんですよ」
IMG_1569b.jpg
足尾銅山の坑道は総延長で1200kmにもなる。狭い部分は四つんばいで進むしかない

世の中の仕事のうち石炭坑夫は最も危険度が高い部類に入るのはまちがいないでしょう。太平洋戦争中には日本の企業が中国大陸や朝鮮半島の人たちを強制労働で坑夫にしました。徳川幕府のころは罪人が坑夫でしたが、働いていたのは金山、銀山、銅山です。石炭を掘るようになったのは明治になってからです。中国や朝鮮半島の人たちは強制労働のことを忘れていません。平和時に起きた北朝鮮政権による日本人ら致が問題になるのと気持ちは同じでしょう。

「自由を奪われた人たちは代々にわたって相手を恨むでしょう。釣り人もバスを殺す条例を作った時代の滋賀県知事を、彼が知事を辞職しようが辞世しようが恨み続けるでしょう」


始末ということ

暗く湿った坑道から脱出すると、明るい空がむかえてくれた。思いきり背伸びができるありがたさ……。

私たちは渡良瀬川の上流を目指した。途中で、わたらせ渓谷鉄道の足尾駅の近くにある、古河(足尾銅山の経営会社)の迎賓館「掛水倶楽部」に寄った。この館は建築されてから100年以上経っており、古河機械金属が福利厚生施設として使っていた。さびれた足尾駅と、さきほど歩いた坑道と同じように、迎賓館はまるで映画のセットのように見えた。

IMG_1596b.jpg
迎賓館「掛水倶楽部」


迎賓館というわりには質素で小さな洋館なのは、古河鉱業の経営者、古河市兵衛の姿勢でしょう。坑夫の目の前で豪華絢爛な鹿鳴館のような特権階級を連想させる建物は始末が悪いと考えたのでしょう。

「始末ですか?」

はい、京都人(古河市兵衛)は始末を大切にします。例えば、間引き菜です。人参や大根の種を多めに播いて菜っ葉になるまで育てます。大きくなりそうなものだけを残す間引きをしますが、間引きした菜っ葉は捨てないで漬け物にしたりします。無駄にせず、食べて始末するのです。ケチではありません。野菜、穀物、魚、肉など食材や家財となる動植物のお命を大切にする姿勢が「始末」です。

「京都ではそうするのですか。では、琵琶湖の外来魚を駆除するような条例や、リリースを禁止してゴミ箱に捨て去ることは京都人の道筋には反するのでは。滋賀県知事が琵琶湖でやってきたことはおかしいんじゃないですか」

京都人は始末がよろしい。古河市兵衛が若いころ奉公した井筒屋さんも京都人として始末がいい。足尾の迎賓館には京都人古川市兵衛のセンスのよさが現れているのです。

釣った魚のリリースを禁止して生き物をゴミ扱いして捨てる。そうした野暮ができる滋賀県知事は始末がなってない。京都の人たちは琵琶湖疎水(琵琶湖から京都市に通じる水路)を大切にしてきました。ところが、滋賀県は工場を誘致して人口を増加させる県政を推進したので、下水処理水を琵琶湖に流すという不始末をしでかしているのです。自分たちが近江人であることを忘れ、文化財になりえるアールデコ建築の小学校を解体しようとし、近江商人の気概や文化も放り出してしまったように思います。


外来種を活用した緑の復興

わたらせ渓谷鉄道の足尾駅から3kmほど奥地に進むと、古河鉱業の製錬所の廃墟が見えた。鉱夫の宿舎だった一群の家屋跡は風雨にさらされ、ゴーストタウンのような光景です。もちろん映画のセットではありません。

IMG_1661b.jpg
旧製錬所跡。巨大煙突から吐き出された亜硫酸ガスで、山々の木々は枯れ果てた。坑道からの地下水が流れ込んでいるのは、渡良瀬川

巨大な煙突からは、かつて銅を精錬する過程で発生する亜硫酸ガスを排気していました。日本の工場地帯は発生した物質のリサイクルや無毒化処理が徹底していることから煙突が少ないと言われます。しかし旧製錬所の煙突は実に見応えがあり、どこか懐かしさすら感じます。廃墟となった製錬所の真下で、坑道からの水が滝のように流れ出していました。奇妙な静けさのなかで、そこだけ水音が轟々と響いていました。

目線を周囲の山々に向けると、エニシダにそっくりな豆科植物の黄色い花、ニセアカアシアの白い花が咲き乱れ、空気が甘い香りに染められていました。まるで自然公園のような雰囲気ですが、ここは公害の痕跡地です。それを無視したように「日本のグランドキャニオン」やら「エアーズロック」と称しているようですが、この禿げ山の惨状は自然の成り行きではなく、人間の行為の結果であることをごまかしてはいけません。
IMG_1603b.jpg

足尾では、鉱山そのものは江戸時代のスタートから約400年後の1973年に採掘が終了されました。その後も、銅の製錬は輸入銅鉱石を足尾まで運んで続けられました。輸入鉱石は国鉄足尾線で運ばれていましたが、1989年に国鉄民営化にともない廃止、第三セクターの「わたらせ渓谷鉄道」になり、製錬所の息の根は止められたのです。

長年にわたり製錬所の煙突から吐き出されてきた亜硫酸ガスによって、周りの山々の木々は枯れ果てました。木々が死滅した山肌からは風雨で土が流れ下り、岩肌がむき出しになった荒涼とした風景になりました。

山肌に土と植物を根づかせる緑化事業は、製錬所に亜硫酸ガスの除去装置がつけられた1956年から本格化したようです。まず、土、肥料、堆肥とイタドリ、ススキ、ヨモギ、ケンタッキー31フェスク、ウイーピングラブグラスなどの草の種子を混ぜ、それを麻袋に詰めた「植生袋」がハゲ山に貼りつけられました。そこから発芽して下草として根付いたところに、ニセアカシヤ、ヤシャブシ、アキグミ、イタチハギの苗を植えて山林の再生が試みられています。

足尾では外来種の帰化植物を活用して人の行為に始末をつけている。足尾銅山(古川市兵衛)は水力発電といい、電話といい、帰化植物といい、海外から導入した物事とのつきあい方が上手い。


砂泥がたまったダム

今は鉱山、製錬所、宿舎は廃墟になっているが、昔ここで働いていた人たちなのだろう、夕暮れどきに銭湯に向かう老夫婦や、イヌと散歩する老人、立ち話に花を咲かせる人たちに接することができた。鉱山の憩いの夕暮れは、閉山した今もなお荒涼とした景色のなかで息づいている。ここに住み続ける年老いた元鉱夫からしてみれば、今さらサービス業の嵐が吹き荒れる日本経済のまっただなかに身を晒すことは本意ではないのかもしれない。
IMG_1680b.jpg
今は住む人のない足尾銅山の宿舎。かつて禿げ山になった裏山は、ニセアカシヤといった外来植物を利用して緑の再生事業が進められている

かつて命をかけて日本国民の文化的生活を根底で支えた足尾の鉱夫たちは、世間から「公害」と位置付けられ用済みとして放り出されたハゲ山に、ともに働いた戦友たちの面影を想いうかべているにちがいない。山の緑が再生してゆくにつれて、彼らの脳から戦意に満ちあふれた若い日々の記憶が遠ざかるだろう。日本の都市生活を根底で支えた足尾とそこで働いた人々を思うと、今でも足尾の廃墟は充分に輝かしい存在です。都市生活をする現代人は、足尾に後ろ指をさすことがあってはならないし、その資格もない。

製錬所からさらに1kmほど奥地に進むと、谷間に日本最大級の堰堤(足尾砂防ダム)が。「七段の滝」とあるが、砂防ダムを7連続させた人工的な風景である。堰堤の上流側は、禿げ山から流出した土砂が堰堤の高さまでダムを埋め尽くして、平原になっていた。この平原で3つの流れが合流して、渡良瀬川の起点になっていた。
IMG_1640b.jpg
足尾砂防ダムの上には土砂がたまってできた平原がある。まるで三途の川のような風景だった。この水は渡良瀬川と利根川を経て太平洋と東京湾に注いでいる

地図を見ると足尾から5kmほど北に、日光の中禅寺湖がある。かたや日本を代表する観光地で毎年大勢の観光客が訪れる。すぐとなりに世の中から忘れ去られたように足尾の山々があるのです。
IMG_1631b.jpg

私たちは砂防ダムの平原に降りて、川のほとりに佇んだ。
「まるで三途の川にいるような感じですね……」と吉田さんは率直な思いを語った。足尾の山々から始まる流れが渡良瀬川になり、渡良瀬遊水地を経由して、皆さんが釣りを楽しむ利根川に合流する、そして、銚子から太平洋に注ぎ、一部は江戸川から東京湾に注いでいます。

もともと東京湾に注いでいた利根川の流れを、現在のように銚子から太平洋に注ぐように工事したのは徳川家康が始めたとされていますが、本格的な工事は明治政府のしたことです。鉱毒のリスクを東京から遠ざけるために、別の地域がリスクを被ることになったわけです。この大工事をきっかけにして、玉突き事故のように改変工事をせざるを得なくなり、現在の霞ヶ浦の姿に至っているのです。

松木沢の砂防ダムから足尾駅まで戻った私たちは、妙な疲労感に襲われ身体が重かった。山を下ろう……。
私たちは来た道を戻るのではなく、国道122号線で日光方面に向かった。清滝ICから日光宇都宮道路に入り、東北自動車道を経て、霞ヶ浦に帰ることにした。現在の霞ヶ浦の諸問題について考える際に、足尾銅山のことを知らなければ何も始まらないことがわかっていただけたでしょうか。

IMG_1599b.jpg
IMG_1671b.jpg
IMG_1606b.jpg
IMG_1612b.jpg
IMG_1649b.jpg
IMG_1674b.jpg




第9回 足尾・渡良瀬(4)銅山の坑道に突入
足尾の下流にある草木ダム

群馬県の桐生市街地の先で国道122号線は進路を北向きにして足尾銅山に向かいます。足尾の山々に向かう途中で、私たちは渡良瀬川の草木ダムに降り立ちました。ダムは日本中どこにでもあります。このダムは首都圏から近いのに観光施設が少なくあまり知られていません。

IMG_1537b.jpg

吉田さん、この草木ダム湖は釣り場として成り立っているのですか?
「足尾銅山から15kmほど下流の渡良瀬川にダム湖があることは釣り雑誌でも紹介されたことがないと思います」

吉田さん、現在は鉱毒は流れ込んでいないはずです。ミネラルが強くてプランクトンの発育が悪いということで、エサがないから魚もいない、放流しても定住できないのでしょうか。

「こういうときは支流や上流を観察するのが釣り人です。地図で地形を読んで、山の高さから水面までの角度で日差しや、木の種類をイメージします。広葉樹林なら葉が落ちて土壌のミミズや昆虫の幼虫が多いのでエサの多様性があります。緩やかな斜面ならエサは少ないけど常時ダム湖に流れ出し、急斜面だと雨水に左右されます。植林による杉のような針葉樹林だとエサが少なく、まして岩肌が露出して土砂流のある場所はエサがない。水中に藻があれば代謝で酸素供給しますから溶存酸素が多くプランクトンや甲殻類も多いので稚魚が成育しやすいのですが……」

果たして、草木ダムはどうでしょうか。

「調べると、渡良瀬川の上流には液状の廃棄物を貯蔵しておく大規模な堆積場が少なくとも2ヵ所あります。写真を見ると水面が赤錆びた色をした堆積場(ダム湖)でした。その下流にある草木ダムでいい釣りは期待できそうにありません」


江戸から昭和へ
363年の歴史


栃木県足尾町の歴史は銅の採掘で成り立ってきた。江戸時代になってすぐの1610年(慶長15年)に銅の鉱脈が発見された。そして、足尾は江戸幕府の管轄下におかれて、幕府の代官が赴任しました。

銅の採掘と製錬が盛んになり、最盛期には年間1200トンの銅を産出しました。江戸時代中期には足尾千軒と呼ばれるほど繁栄しました。ところが鉱脈を掘り尽くした後は衰退して、幕末には見捨てられた山として放置されていたのです。

1877年(明治10年)に古河市兵衛が銅山を買い取り経営を始めた。先進的な技術と設備が導入されて、新しい鉱脈が発見され、生産量が急速に伸びて1884年(明治17年)には銅の生産量が日本一になり、1890年(明治23年)には日本の銅生産の25%を占める銅山になります。

その後も鉱脈が発見され続け、大正時代以降も発展が続きます。1916年(大正5年)に足尾の人口は宇都宮市に次ぐ3万8千人に達した(栃木県で2番目の町)。

戦後の1961年(昭和36年)に、銅の貿易自由化が決まり、海外から輸入できるようになり国内の鉱山は経営難になる。やがて産出量の減少とコスト高により、1973年(昭和48年)2月28日に、足尾銅山は363年にわたる銅採掘の歴史を終えたのです。

日本の鉱業は富国強兵という国策に財閥が関わり確立した。植民地政策を推進する欧米の事情を知った江戸末期から明治にかけて発展し、太平洋戦争敗戦まで日本の主要産業だった。

敗戦後に学生運動が盛んだったころ、財閥を政商と呼んで非難することがあった。政商には、徳川幕府の特権商人で明治維新のあとも続いた三井、住友、鴻池と、明治期の動乱で商才を発揮した岩崎(三菱)、安田、藤田、大倉、浅野、古河、川崎と、明治政府の官僚から転じた渋沢、五代のタイプがある。

これらの財閥の多くは現在も企業グループとして存続しています。ときおり政商よばわりされても仕方ないように財界、官界、政界との癒着が事件になります。創業者の苦情(難儀な事情)を学ばないまま、現代の経営者が己の強欲に心を奪われると手錠をかけられてしまうのです。社員を勉強させない会社は立ち行かなくなります。


銅山による公害

足尾銅山は渡良瀬川の渓谷にある。周りの山々の木は坑内の崩壊を止める坑木の材料にするため伐採された。鉱石を精錬するときに発生する亜硫酸ガスが、大木の伐採で風雨に抵抗力を失っていた低間木や下草を枯れさせた。根が絶えたため雨で山の土が流されてしまった。根と土で覆われ安定していた岩石部が露出して、風雨降雪、凍結融解が繰り返され岩山が浸食された。

鉱山から掘り出された銅など鉱物資源が含まれていない石(ゴロタ)と精練後の石(ボタ)は渡良瀬川支流の渓谷、山裾野、わずかな麓の暖斜面に打ち捨てられた。豪雨にならなくても土石流が発生するようになり下流域の洪水の原因になった。山が荒れると土石流が発生し、下流域が洪水に見舞われるという実験は、ここで充分に証明されていた。

しかし、当時の政府も古河鉱業も、環境学という未知の学問には気がつかなかった。それどころか、台湾動乱、日清戦争、日露戦争という勝たなくては国が滅びるような戦争が続き、連戦連勝が求められていた。古河鉱業は国家国民の利益のために山を堀り続けなければならなかった。

銅山の生産量が増えつつある1880年(明治13)くらいに、渡良瀬川の魚が死に始め、農業のかたわら魚を獲る農民たちが不安の声を上げ始めたそうです。やがて渡良瀬川周辺の農作物に発芽抑制、生育不順、立枯れという被害が出始めた。

土石流をともなう頻繁な洪水を渡良瀬川の流域農民は経験したことがなかった。上流にある足尾銅山に次々と鉱脈が発見され、鉱石の処理量が飛躍的に増えたことが江戸時代との違いだった。

たび重なる渡良瀬川の氾濫によって、農作物への被害が下流の利根川流域にまで拡大した。飲み水など生活用水に土石流で流されてきた銅の鉱石に含まれる硫酸銅、亜鉛、カドミウム、ヒ素などが含まれ、ヒトの細胞に必要以上のミネラル(無機塩類・鉱物質)が住民の健康に慢性的な影響を及ぼし始めた。

栃木県は渡良瀬川での漁獲を禁止した。吾妻村は1889年(明治22年)銅山の採掘停止を上申した。このころ栃木県選出の立憲改進党代議士だった田中正造が、帝国議会でこの問題を取り上げて世論に訴えはじめた。

銅鉱石は粉々に砕いて溶鉱炉で加熱して銅を溶かし出す。これを粗銅といって銅以外の物質が含まれているため、まだ良質な銅ではない。この粗銅を電気で精練すると純粋な銅ができる。

粗銅を取り出したあとに残った石には、銅とともに含まれていた物質が含まれている。副産物として経済的に役立つものと不用なものが出る。白金、金などは金目のものであるが、それ以外の物質は、川に流す、海に捨てることで解決していた。不用な物や都合の悪いことを水に流してしまうことは、今の日本人にも庶民的な感覚として残されている。

公害のことは社会の先生が教えることではない。公害は理科であり化学(科学)の先生が教えるべきである。社会の授業で公害を扱うと加害者と被害者の事態ばかりが先走り感情論で済まされてしまうからだ。公害の本質を理解するには科学的アプローチが必要です。


足尾銅山の坑道に入る

渡良瀬川には「渡良瀬遊水地」という湿原とアシ原が広がる広大な人造湖と、渓谷をせき止めた「草木ダム」という人造湖が、同じ川にあることがわかります。遊水地付近の下流部は鉄道、高速道路、国道の整備によって拡大した首都圏に取り込まれつつあります。現在の渡良瀬遊水池は市民の目には単なる「自然公園」に映っているのでしょう。かつてあった谷中村が潰された史実を知る人は少ないのです。

「足尾に向かって走っているのに、さきほどから、道路標識に足尾という地名が出ないことが不思議です。国道122号船の大間々町あたりからようやく足尾の標識を目にするようになりました。あれほど大規模な公害、それも日本で初の公害発生地として教科書にも出てきて、誰でも知っている地名なのに不親切ですね」

地図上でも足尾銅山はかなり拡大図にならないと表示されません。臭いものには蓋をする、です。

「しかも足尾銅山は日光、いろは坂、中禅寺湖の近くですよ。有名な観光地のこれほど近くに足尾銅山があるとは思いませんでした」

IMG_1589b.jpg

足尾銅山に到着すると、わたらせ渓谷鉄道の通洞駅近くにある「足尾銅山観光」のトロッコに乗り込んだ。トロッコは通洞坑の坑内に入り、100mほど進んだトンネル内で私たちを降ろすと、引き返してしまった。坑内に取り残されたようで心細い。

IMG_1544b.jpg

IMG_1594b.jpg

坑内はかつて鉱夫が堀り進んだままです。岩盤には掘削機の歯跡が残っていました。岩盤のあちこちから地下水が流れ出ていて、観光用の鍾乳洞などとは比べ物にならない現実的な恐ろしさ迫ってきます。

もはや含有量は少ないとはいえ銅鉱脈の石壁なので、硫酸銅によるマリンブルー、酸化銅の緑青、酸化鉄の褐色などが薄暗い電球に照らし出されていました。そして、とにかく狭い。腰を屈めて進まなくてはならない。坑道を歩いていると、落盤の恐怖が襲ってきます。早くここから出たい……。

IMG_1562b.jpg







上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。