釣り人のための水辺の環境学。小さな命の大切さを原理として釣り人の自由を守る兵法書です。






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プロフィール

Author:NPOミズベ
文◎升秀夫、吉田幸二
文と構成◎金澤一嘉

升秀夫(ます・ひでお)
1955年東京都杉並区生まれ。京都市下京区在住。
日本獣医師会生涯研修認定獣医師。専門は獣医臨床/医動物学。筑波大学大学院/医学医療系助教。湘央学園非常勤講師 (小動物外科)。環境省浄化槽フォーラム理事。NPO水辺基盤協会副理事長。
著書『うちの子がわたしを看てくれる/動物介在看護』など多数。セラピードッグプロジェクトとして医療現場での伴侶動物の役割を研究。

吉田幸二(よしだ・こうじ)
NPO法人水辺基盤協会理事長、W.B.S.顧問。
1951年東京都文京区生まれ。茨城県霞ヶ浦在住。1984年からプロアングラーとして活動。1987〜89年の計3回、B.A.S.S.メガバックストーナメント参戦(フロリダ州)。アメリカで経験したトーナメントを参考にして、1990年霞ヶ浦でバストーナメント団体W.B.S.を設立。多くのプロアングラーを育成。この間に釣り場の清掃活動をスタート。2004年にW.B.S.の運営から退き、2005年にNPO法人水辺基盤協会を茨城県の認定を受けて設立。釣り場の清掃活動「53 Pick Up!」を全国展開する。

金澤一嘉(かなざわ・かずよし)
編集記者。1970年東京都葛飾区生まれ、千葉県印旛沼水系在住。
つり人社月刊バサー編集部、ほぼ日刊イトイ新聞を経て、月刊バサー誌のフリーランス記者として企画取材活動の日々。このブログの管理人。下のメールフォームから管理人に送信できます。



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第7回 足尾・渡良瀬(2)古河市兵衛
渡良瀬遊水地へ

旅の目的地は栃木県日光市の足尾銅山です。霞ヶ浦を出発した私たちは、その途中にある渡良瀬遊水池(わたらせ・ゆうすいち)に向かいました。

私たちは足尾銅山の鉱毒事件と、衆議院議員だった田中正造による明治天皇への直訴未遂(1901年/明治34年、田中が60歳になる年)を教科書で教わりました。そして、田中正造は正義であり、鉱山会社は公害を垂れ流した悪である、というイメージをもってきました。

明治時代は政府による富国強兵のスローガンのもと、工業化が最優先されていました。豊臣秀吉の検地から江戸幕府が解体するまで続いてきた、米を中心とした価値観からの大転換がはかられていたのです。

足尾銅山の出来事は「正義と悪」という単純な見方で理解したと思ってはいけません。ものごとを善悪で単純化することは、視野をせまくして、現実を見誤ることにつながってしまいます。私たちの釣りの障害になっている「在来種の存在は正義、外来種の存在は悪」といった考え方に通じるものがあります。


明治政府と対決した田中正造

足尾銅山の鉱毒による公害とは、いったいなんだったのか? 国会議員だった田中正造のしたこと、銅山経営者だった古河市兵衛のしたことを考えてみます。

まずは、鉱毒の原因について。
銅を湿った空気中に放置しておくと、緑青(ろくしょう)という青緑色のサビが生じます。いかにも毒々しい色なので、足尾銅山の鉱毒はこの緑青によるものだと思っている人がいるかもしれません。実際には緑青の毒性はごくわずかで、ほぼ無害です。

足尾銅山の鉱毒は、鉱物の採掘と、それを製錬するときに生じる廃棄物が原因でした。坑内の水や、製錬したあとの排水に有毒な成分が溶け込んでいたのです。それが渡良瀬川に流れ出た。

足尾銅山からは、鉄、硫黄、金、銀を含んだ黄銅鉱(おうどうこう)という鉱石が掘り出されていました。この鉱石には銅が6%ほど含まれていたほか、ヒ素も入っていたし、動植物の育成に悪影響を与える物質も含まれていました。

ご存知のとおりヒ素は猛毒です。毒物は鉱山近くの谷間に集まり、大雨のときに渡良瀬川に流れ出ました。渡良瀬川によって下流に流されたヒ素や硫黄は、流域の農業用水に入りました。田や畑がヒ素で汚染され、植物の発芽を抑制するほどの濃度に達していました。さらに、洪水などによって、毒物は利根川流域にも迫ったのです。

もしこの規模の鉱毒事件が、明治維新より昔、江戸時代に起きていたら、どうだったでしょう。徳川幕府は足尾銅山を閉山して、流域の田畑の再生に着手しただろうと思います。江戸時代は、石高制といって、米を資本とした経済が、国を運営する根幹だったからです。つまり、米が最優先だった。

ところが、明治政府は欧米列強を追いかけて工業先進国を目指しました。足尾銅山から掘り出す銅は、電線、武器、貨幣、調理器具など、富国強兵と都市の市民生活のために必要なものでした。また、輸出され外貨獲得にも役だっていました。

そして、国策として富国強兵、工業化、都市化を目指していた明治政府と対決してしまったのが田中正造です。正造は1913年(大正2年)9月4日に、72歳で世を去りました。当時としては長生きです。

田中正造は勤勉な人で、農業経済を重んじた日課を生涯にわたって守り続けました。
一、朝食前に、必ず草を一荷刈ること。
一、朝食後、藍玉の小屋に入っておよそ3時間仕事をすること。
一、それが終わったら寺子屋で子供たちに読み書きを教えること。
一、夕食後、藍玉の小屋を見まわり、夜はお寺で友達と一緒に勉強すること。
一、そのほか、耕作の仕事はもとより、名主の仕事は自宅で処理すること。

田中正造が、足尾銅山の鉱毒による農民への被害を食い止めるために、明治天皇に直訴(未遂に終わった)に及んだことは、まさに明治政府との対決です。正造は、江戸時代以前から続く百姓を基盤とした国づくりが、日本の歴史と伝統からして「正義である」と決めたのでしょう。日本人は米なくしては生きられないと考えたのかもしれません。そして、工業化のなれの果てが、鉱毒におびやかされた渡良瀬川流域の村々の景色だと考えてたのでしょう。


足尾銅山の経営者

足尾銅山の鉱毒問題に命を捧げたのは田中正造だけではありません。もうひとり、足尾銅山の鉱業主である古河市兵衛(ふるかわ・いちべえ)について知る必要があります。田中正造とは立場の違いはあるけれど、誠心誠意、鉱毒問題に腐心した人です。

古河市兵衛は、江戸時代後期の天保3年(1832年)、京都の造り酒屋、木村家の二男として生まれました。生家は庄屋の家柄だったが父の代には没落し、市兵衛は幼い頃から奉公に出され、天びん棒をかついで豆腐を売り歩くなど、貧しい少年期を過ごしました。9歳年下の田中正造が、比較的裕福な名主の家に生まれ育ったのとは対照的です。

古河市兵衛は、母方の叔父を頼って18歳で京都を出て盛岡に移住して、藩の役人だった叔父が営む高利貸しに従事しました。27歳になると、叔父の口利きで京都井筒屋小野店の古河太郎左衛門の養子になりました。そして、福島と京都を拠点にして生糸の商売で商才を発揮して、横浜から生糸を輸出するなどして大成功しました。
明治2年(1869年)に井筒屋本家から分家(子会社創立)を許され、そのあと、鉱山経営に乗り出したのです。

西南戦争で西郷隆盛が死んだ明治10年(1877年)に、古河市兵衛は業績不振が続いていた足尾銅山を4万8380円で買い取りました。古河は、欧米の新技術を導入して、鉱脈を探します。彼は日本で最初の水力発電所を建設して坑道の内と外を電化しました。それによって、足尾銅山の価値は飛躍的に高まりました。明治20年(1887年)には日本の銅の40%を産出して、古河は日本の銅山王の地位を獲得したのです。

ところが、明治23年(1890年)頃から渡良瀬川に鉱毒が流出して、国会議員だった田中正造が帝国議会にこれを訴えました。田中正造の明治天皇への直訴未遂事件(1901年)のあと、明治政府は「鉱毒除外予防工事命令」を発しました。古河市兵衛はその実行に事業の命運をかけて取り組んだのです。

この工事を終えたあと、市兵衛は急激に疲弊して、明治36年(1903年)に72年の生涯を終えました。古河市兵衛が創業した足尾銅山の開発会社は、その後事業の近代化、多角化を進めて、古河電工、富士電機、富士通などを含む古河グループになっています。


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古河市兵衛

古河市兵衛の功績

古河市兵衛が足尾銅山の開発に新しい技術を導入して、電化を行なったことは、明治22年(1891年)に琵琶湖疏水の水力発電によって京都の街を電化した田辺朔郎よりも早い快挙でした。

また、足尾銅山は電化したことで、日本で初めて電話が敷かれました。鉱脈をダイナマイトで爆破するときなどに、電話で連絡をとりあうことで坑夫の安全性が飛躍的に向上したそうです。地獄の入り口で穴堀りをする坑夫たちは、市兵衛の商才により守られていたのです。

ところが、こうした市兵衛の多くの功績は、田中正造の正義の影に被い隠されてきました。市兵衛は次のように書き残しています。
「鉱毒予防命令が出て、その命令どおりに工事が行なわれたが、それによって鉱毒問題は解決しなかった。それで政府は鉱毒調査委員会を設置して、その勧告にしたがって、渡良瀬川改修工事が行なわれた。鉱毒問題に解決を与えたものは、渡良瀬川の治水工事であった」

林竹一は「古河は鉱業停止を鉱毒予防命令にすりかえることに成功した」と書いているが、それは現在のモノサシで見た評価であり、私はそうは思いません。もし鉱業停止になっていたら、足尾銅山の坑夫たちは失業し、古河鉱業も倒産して多くの人が影響を受けていたはずです。なにより明治政府の国策により工業化、富国強兵を目指していた時代に、日本一の産出量を誇る銅山を国が閉鎖することはなかったでしょう。

古河鉱業の足尾銅山は、明治から昭和にかけて日本の近代産業の発展と、都市文化を育むことに貢献しました。産業の発展と都市文化を求めたのは、多くの都市生活者たちです。足尾の銅の生産による多くの利益は会社だけにとどまらず、間接的に都市住民にも行き渡っているのです。

都市生活を発展させるために、地方の生産地の労働者や農民、漁民が苦しみ、古河市兵衛のような事業主も苦労を背負っていた時代だと言えます。彼らの苦労から恩恵を得ていた当時の都市住民は、現地の犠牲者の悲鳴には耳をふさぎ、目を閉じるしかなかったのかもしれません。

もちろん、足尾銅山の古河鉱業は地元住民に財をもたらし、栃木県足尾町(現日光市)は企業城下町として賑わいました。その反面、公害の被害者、犠牲者と家族の苦しみは長年にわたるもので、心の傷が癒されることはなかったかもしれません。

平成という時代を生きる私たちは、足尾銅山から始まった日本の工業化により、先進的な技術を駆使した工業製品を売り、現在、ありあまるほどの食料を手にできたのだと考えることもできます。


渡良瀬遊水地に眠る谷中村

霞ヶ浦(土浦)を出発した私たちは、国道354号線で利根川の上流に向かい、古河の町外れで渡良瀬川にかかる三国橋を渡りました。そこは、茨城県、栃木県、埼玉県、群馬県という4つの県の境界線がクネクネと入り組んでいる珍しい地域でした。昔からのたび重なる洪水で川筋が何回も移動したのでしょう。

広大な渡良瀬遊水地には谷中村役場の跡地があります。明治時代に谷中村があった場所は、ダム湖に水没したわけではなく、広大な湿地帯になっていました。田中正造が谷中村を水没から守るために明治政府と対決した当時を物語るものは何もありません。見渡すかぎり人造の湿地帯と貯水池です。

犬の散歩をしたり、レンタル自転車で遊水地内の堤防をサイクリングしたり、役場の跡地を囲む芝生の公園でピクニックや昼寝をするレジャーの風景が広がっていました。まるで、どこかのニュータウン内の公園のたたずまいです。花が散った柳の木、赤紫の実をつけた桑の木が並ぶ光景が、かつての谷中村をかすかに想像させてくれます。

驚いたことに、渡良瀬遊水地のヨシ原は北海道の釧路湿原についで日本で2番目の広さだそうです。まるで大自然に恵まれた水辺のようです。しかし、ここは足尾銅山から流れてきた鉱毒による公害が作り出した人造の「公害モニュメント」です。明治時代に遊水地を建造する国策工事を知ったら大反対したであろう現代の自然愛好家やエコな人々が、現在の渡良瀬遊水地を自然の楽園、野鳥の宝庫として肯定するのは、ほほえましく、胸が熱くなります。

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明治政府にとっては都合の悪い存在、それが渡良瀬遊水地です。ここにあった谷中村は足尾銅山鉱毒事件のために、明治政府や栃木県庁によって強制的につぶされて、遊水地にされたのです。

また、東京湾に流れていた利根川の流路を太平洋に流れるように造り変えたのは徳川家康だとされています(利根川東遷)。しかし、本格的な工事で現在の姿にしたのは明治政府です。渡良瀬川は利根川に合流します。その水が東京に向かうのはいろいろまずかったのでしょう。都市と田舎の優先順位が見えてきます。

田中正造が明治天皇に直訴しようとして未遂に終ったのは1901年です。明治維新が1866〜1868年なので、江戸時代が終わってから30年くらいしか経っていません。明治政府はその間に急速な工業化、都市化を進めたのです。

谷中村役場の跡地には見上げるほどの桑の大木が木陰を作っていました。田中正造はつぶされる直前の谷中村にわざわざ移住していました。あるとき村に戻る途中、栃木県佐野市で病気のため寝込み、「現在を救いたまえ、現在を救いたまえ、ありのままを救いたまえ」と叫んで意識不明になり他界しました。

静かな農村だった谷中村がつぶされてできた渡良瀬遊水地、そこに立ち並ぶ桑の木のそよぎは、田中正造の声を私たちに伝えているように感じられました。現代の私たちの暮らしは、あまりにも恵まれていて、正造の悲痛な叫びを聴くことなどできません。

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