釣り人のための水辺の環境学。小さな命の大切さを原理として釣り人の自由を守る兵法書です。






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NPOミズベ

Author:NPOミズベ
文◎升秀夫、吉田幸二
文と構成◎金澤一嘉

升秀夫(ます・ひでお)
1955年東京都杉並区生まれ。京都市下京区在住。
日本獣医師会生涯研修認定獣医師。専門は獣医臨床/医動物学。筑波大学大学院/医学医療系助教。湘央学園非常勤講師 (小動物外科)。環境省浄化槽フォーラム理事。NPO水辺基盤協会副理事長。
著書『うちの子がわたしを看てくれる/動物介在看護』など多数。セラピードッグプロジェクトとして医療現場での伴侶動物の役割を研究。

吉田幸二(よしだ・こうじ)
NPO法人水辺基盤協会理事長、W.B.S.顧問。
1951年東京都文京区生まれ。茨城県霞ヶ浦在住。1984年からプロアングラーとして活動。1987〜89年の計3回、B.A.S.S.メガバックストーナメント参戦(フロリダ州)。アメリカで経験したトーナメントを参考にして、1990年霞ヶ浦でバストーナメント団体W.B.S.を設立。多くのプロアングラーを育成。この間に釣り場の清掃活動をスタート。2004年にW.B.S.の運営から退き、2005年にNPO法人水辺基盤協会を茨城県の認定を受けて設立。釣り場の清掃活動「53 Pick Up!」を全国展開する。

金澤一嘉(かなざわ・かずよし)
編集記者。1970年東京都葛飾区生まれ、千葉県印旛沼水系在住。
つり人社月刊バサー編集部、ほぼ日刊イトイ新聞を経て、月刊バサー誌のフリーランス記者として企画取材活動の日々。このブログの管理人。下のメールフォームから管理人に送信できます。



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第8回 足尾・渡良瀬(3)イヌはどこから来たのか?
前回は足尾銅山に向かう途中で、渡良瀬遊水地に立ち寄りました。明治政府の工業化という国策と対決してしまった田中正造について、足尾銅山の経営者だった古河市兵衛について学びました。そして鉱毒の被害が下流に広がることを食い止めるために建造された渡良瀬遊水地と、その時に沈められた谷中村の跡地に立ちました。

現在の渡良瀬遊水地は、野鳥の宝庫などと呼ばれると同時に、広大な憩いのスポットになっていて、イヌの散歩をする多くのヒトで賑わっていました。足尾銅山に向かう車中で私と吉田さんはヒトとイヌについて考えました。イヌはいつどのようにして日本に入ってきたのでしょうか。


ヒトに従属するオオカミ

「升さん、イヌはいつごろからヒトと暮らし始めたのですか」

ヒトとイヌが一緒に暮らしていた証拠として、アラスカの遺跡からイヌの骨が見つかっています。一番古いものは約2万年前のものです。イランの岩場にあるイヌの壁画は1万2千年前に描かれたそうです。アメリカ、パレスチナ、ドイツなどの遺跡からは約1万年前のイヌの骨が発見されています。

「イヌはオオカミが家畜化されたものだと聞いたことがありますが、それは本当なんですかね」

アフリカ大陸のほぼ中央に生息していた中型霊長類ヒトは、二足歩行を始めて、やがて集団で狩りをするようになりました。集団で狩りをする動物はリカオン、ハイエナ、オオカミなどがいます。ハイエナはジャコウネコに近い夜行性の動物で、死んだ哺乳類や鳥類の腐肉を食べますが自分たちで狩りもします。

ジャッカルはイヌ科で、ハイエナのように腐肉を食べたり、小動物、果実、甘蔗(サトウキビ)なども食べる、現在のイヌに似た雑食性です。リカオンは巣穴で生活して、夜に数十頭の群れでインパラなどの有蹄類を捕食するので、オオカミに近いのかもしれません。

ところが、リカオン、ハイエナ、ジャッカルの集団とオオカミの集団には違いがあります。オオカミ社会には順列があるのです。

「それはヒトの序列みたいに?」

私は動物行動学について詳しくありませんが、オオカミもヒトも同じようなフィールドで同じような獲物をねらって、それぞれ狩りのときの集団に序列があるそうです。

「まさか、オオカミの狩りの行動を観察して、ヒトが狩りの技術を身につけたとか。もしそうだとすると、ヒトの序列社会はオオカミに学んで習得したことになる……」

面白い仮説ですね。吉田さんの説とは逆になりますが、ヒトが得た獲物をオオカミが分けてもらい、やがてヒトに飼い慣らされて、ヒトの狩りに同行する生き方を選択したオオカミがいた、それがやがてイヌになったと考えるべきでしょう。

「あるオオカミの集団か、ある1頭がヒトから獲物の分け前をもらうようになって、自分で狩りをするよりヒトの狩りに協力して分け前をもらうほうが生きやすいと思ったと?」

あくまで推測ですが、それが狩猟犬の始まりではないでしょうか。ヒトに媚びない野生のオオカミもいたけど、ヒトに慣れて従ったオオカミもいた。ヒトに従属しなかったオオカミは、大和朝廷に従属しなかった先住日本列島人のように、やがてはヒトに滅ぼされてしまう。絶滅した日本オオカミみたいに……。

オオカミは地球上から絶滅しそうになっています。ヒトに従属したオオカミがイヌになって生き残り、野生のオオカミは絶滅においやられてしまうことを考えると、イヌの命を救う獣医として複雑な気分です。


可愛がるのも殺すのもヒトの都合

シェパードやハスキーの体型はオオカミに似ています。昔はオオカミが北半球全体を覆うように広く生息していたのに、西ヨーロッパ、中国の大部分、日本では絶滅しました。オオカミは家族単位の集団で生活していて、シカも食べるし、ネズミなど小動物も食べていたらしい。日本の本土産オオカミは小形系のオオカミで、ヤマイヌとも呼ばれていたのですが、1905年くらいに奈良県を最後に姿を消しました。大型の北海道産オオカミ(別称エゾオオカミ)も1895年くらいに絶滅したそうです。

「オオカミに衣」ということわざは、うわべは善人らしく装いながら、内心は凶悪無慈悲なことのたとえで、一匹オオカミとは独りで行動する人ということです。

イヌには「犬骨折って鷹の餌食になる」という慣用句があります。鷹狩りで犬が苦労して追い出した獲物を鷹に横取りされることから、労して得た物を他人に奪われることです。

「イヌも歩けば棒にあたる」は、物事を行なう者は時に災いにあう。また、やってみると思わぬ幸いにあうことですね。本当の意味は前者の災いにあうということでした。あまりよい意味ではありませんね。

「イヌの川端歩き」は、いくら歩き回っても何も得るものがないこと、また、金を持たずにぶらつくことのたとえです。

ヒトはオオカミから狩猟を習い、オオカミはヒトと暮らしてイヌになってくれたのに、イヌ死に、イヌも食わない、イヌの論語といった言葉もあります。吉田さんは愛犬ジャッキー(ゴールデンレトリバー)を決してイヌ何々というような扱いはしないで、互いに感謝と尊敬をもって家族の一員として暮らしてきました。プロアングラーは狩猟民でありイヌはパートナーです。

「升さんこそ獣医だからイヌはパートナーでしょう」

吉田さんが言うことはもっともですが、実は私はその意義を失ってしまい苦しい思いをしています。私の人生はイヌの川端歩きみたいな状態なんですよ。というのは、捕獲された野良イヌや実験用に育てられたビーグルを動物実験に使って、ヒトに都合のよい薬品や治療のノウハウを得たら殺処分してしまう、ということを過去にしてきたからです。

私は自宅で飼うイヌを可愛がる一方で、医療と薬品の仕事ではそんなことをしていたので、矛盾を感じてきましたし、自分に言い訳ができません。自分にうまい言い訳ができると、出世できるのかもしれません。獣医も診療ミスをして黙っていたり、隠していても仕事が続けられるのは、自分に言い訳ができる能力があるからだと考えてしまいます。

「つまり、ヒトのためになるなら可愛がり、ヒトのためにならないなら殺しても仕方がないということですか?」

漁師は売れる魚は売り、売れなくても食べられる魚は自分たちで食べます。なるべく捨てない。日本の淡水域は面白いことに、明治以後に入ってきた外来魚でも、売れる魚は売るし、美味しい魚は食べ物として流通させています。ブルーギルやアメリカナマズなどは美味しくないと思って、釣れたら地面に投げ捨てる釣り人も多いようです。食べたら美味しいのに調理がめんどうだから捨ててしまうこともあるようです。

「釣り人として苦しいところです。釣ったあと不要だからと岸に捨てられて無意味に殺される魚をいくらでも見ます。升さんと同じように自分でも答えが出せないで考えてしまいます」


日本列島は移入種だらけ

「升さん、イヌはいつ頃から日本列島に入ってきたんですか」

わかっているのは縄文時代の縄文犬です。神奈川県の夏島貝塚から発見されたイヌの骨は、9500年前のものと推定されています。ちなみに、ウシ、ウマ、ニワトリは弥生時代に朝鮮半島からもちこまれた外来種の家畜です。ヤギは15世紀に琉球から島伝いに九州に達して広がったようです。もちろんヤギが島伝いに泳いで生息範囲を広げたわけではありません。ヒトが舟に乗せて運んだのです。

ウシはオーロックス(ウシ科の絶滅種。家畜化されたウシの先祖)を起源とするユーラシア型と、コブウシ(インド牛)を起源とする東南アジア型に分けられます。鹿児島県南部と奄美諸島との間にあるトカラ列島を経由したトカラウシ、朝鮮半島から日本列島に運び込まれたミシマウシ、明治時代にヨーロッパから外来したウシ、それらを交配改良して黒毛、褐(アカ)毛、無角和種、日本短角の4種類の和牛を作りました。面白いことに山口県見島の見島牛(ウシが日本に渡来した頃の面影を残す)は、なぜか在来種として天然記念物になっています。ほほえましいことです。

「イヌはウシやウマよりずっと大昔に大陸からヒトとともに日本列島に入って来たのですね。日本列島の生き物は海外から外来した種だらけですな」

ヒトの遺伝子は約30億文字で構成されていますが、この解析はほぼ終了しています。つまり、吉田さんはどこから渡って来たのか、どんな部分に先住日本人の遺伝子が引き継がれているのか、などが分析できるようになります。ほかの生物も同じような手段で遺伝子を調べられます。

今までの伝統的な生物学によっては、生態、形態、発生、分類など、その魚がどこからきたのか、日本列島の固有種として認める条件は何か、などが曖昧でした。ところが遺伝子で調査をすると、この魚のツールは今から何年前にどこから入ってきたのか、などが分かるので、今日本にいる生き物を排除する基準を作ることができます。

もしもヒトの遺伝子を調べて、ある部分だけを強調すると人種差別が起きてしまうでしょう。私が絶対にやめてほしいと思っている研究は、ヒトの性格を遺伝子で分類することです。

「そこから差別が始まって、いじめ、排除、暴力、殺せ、ということにつながっていく。外来魚の駆除とか、リリース禁止とかも、升さんは差別から始まっていると?」

そうです。サメが生き延びるためにほかの魚を食べたり、ヒトが食われたりするとジョーズ呼ばわりされて、殺せ! 駆除だ! 撲滅だ! となります。もともとサメはただ生きているだけですから、ヒトの支配的意識が差別を生み出しているのです。もし、サメがヒトからエサをもらって可愛く尻尾を振る芸達者な生き物だったらどうでしょう? たぶんヒトのパートナーとして大切に扱われたことでしょう。とにかくヒトは御都合主義なのです。

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第7回 足尾・渡良瀬(2)古河市兵衛
渡良瀬遊水地へ

旅の目的地は栃木県日光市の足尾銅山です。霞ヶ浦を出発した私たちは、その途中にある渡良瀬遊水池(わたらせ・ゆうすいち)に向かいました。

私たちは足尾銅山の鉱毒事件と、衆議院議員だった田中正造による明治天皇への直訴未遂(1901年/明治34年、田中が60歳になる年)を教科書で教わりました。そして、田中正造は正義であり、鉱山会社は公害を垂れ流した悪である、というイメージをもってきました。

明治時代は政府による富国強兵のスローガンのもと、工業化が最優先されていました。豊臣秀吉の検地から江戸幕府が解体するまで続いてきた、米を中心とした価値観からの大転換がはかられていたのです。

足尾銅山の出来事は「正義と悪」という単純な見方で理解したと思ってはいけません。ものごとを善悪で単純化することは、視野をせまくして、現実を見誤ることにつながってしまいます。私たちの釣りの障害になっている「在来種の存在は正義、外来種の存在は悪」といった考え方に通じるものがあります。


明治政府と対決した田中正造

足尾銅山の鉱毒による公害とは、いったいなんだったのか? 国会議員だった田中正造のしたこと、銅山経営者だった古河市兵衛のしたことを考えてみます。

まずは、鉱毒の原因について。
銅を湿った空気中に放置しておくと、緑青(ろくしょう)という青緑色のサビが生じます。いかにも毒々しい色なので、足尾銅山の鉱毒はこの緑青によるものだと思っている人がいるかもしれません。実際には緑青の毒性はごくわずかで、ほぼ無害です。

足尾銅山の鉱毒は、鉱物の採掘と、それを製錬するときに生じる廃棄物が原因でした。坑内の水や、製錬したあとの排水に有毒な成分が溶け込んでいたのです。それが渡良瀬川に流れ出た。

足尾銅山からは、鉄、硫黄、金、銀を含んだ黄銅鉱(おうどうこう)という鉱石が掘り出されていました。この鉱石には銅が6%ほど含まれていたほか、ヒ素も入っていたし、動植物の育成に悪影響を与える物質も含まれていました。

ご存知のとおりヒ素は猛毒です。毒物は鉱山近くの谷間に集まり、大雨のときに渡良瀬川に流れ出ました。渡良瀬川によって下流に流されたヒ素や硫黄は、流域の農業用水に入りました。田や畑がヒ素で汚染され、植物の発芽を抑制するほどの濃度に達していました。さらに、洪水などによって、毒物は利根川流域にも迫ったのです。

もしこの規模の鉱毒事件が、明治維新より昔、江戸時代に起きていたら、どうだったでしょう。徳川幕府は足尾銅山を閉山して、流域の田畑の再生に着手しただろうと思います。江戸時代は、石高制といって、米を資本とした経済が、国を運営する根幹だったからです。つまり、米が最優先だった。

ところが、明治政府は欧米列強を追いかけて工業先進国を目指しました。足尾銅山から掘り出す銅は、電線、武器、貨幣、調理器具など、富国強兵と都市の市民生活のために必要なものでした。また、輸出され外貨獲得にも役だっていました。

そして、国策として富国強兵、工業化、都市化を目指していた明治政府と対決してしまったのが田中正造です。正造は1913年(大正2年)9月4日に、72歳で世を去りました。当時としては長生きです。

田中正造は勤勉な人で、農業経済を重んじた日課を生涯にわたって守り続けました。
一、朝食前に、必ず草を一荷刈ること。
一、朝食後、藍玉の小屋に入っておよそ3時間仕事をすること。
一、それが終わったら寺子屋で子供たちに読み書きを教えること。
一、夕食後、藍玉の小屋を見まわり、夜はお寺で友達と一緒に勉強すること。
一、そのほか、耕作の仕事はもとより、名主の仕事は自宅で処理すること。

田中正造が、足尾銅山の鉱毒による農民への被害を食い止めるために、明治天皇に直訴(未遂に終わった)に及んだことは、まさに明治政府との対決です。正造は、江戸時代以前から続く百姓を基盤とした国づくりが、日本の歴史と伝統からして「正義である」と決めたのでしょう。日本人は米なくしては生きられないと考えたのかもしれません。そして、工業化のなれの果てが、鉱毒におびやかされた渡良瀬川流域の村々の景色だと考えてたのでしょう。


足尾銅山の経営者

足尾銅山の鉱毒問題に命を捧げたのは田中正造だけではありません。もうひとり、足尾銅山の鉱業主である古河市兵衛(ふるかわ・いちべえ)について知る必要があります。田中正造とは立場の違いはあるけれど、誠心誠意、鉱毒問題に腐心した人です。

古河市兵衛は、江戸時代後期の天保3年(1832年)、京都の造り酒屋、木村家の二男として生まれました。生家は庄屋の家柄だったが父の代には没落し、市兵衛は幼い頃から奉公に出され、天びん棒をかついで豆腐を売り歩くなど、貧しい少年期を過ごしました。9歳年下の田中正造が、比較的裕福な名主の家に生まれ育ったのとは対照的です。

古河市兵衛は、母方の叔父を頼って18歳で京都を出て盛岡に移住して、藩の役人だった叔父が営む高利貸しに従事しました。27歳になると、叔父の口利きで京都井筒屋小野店の古河太郎左衛門の養子になりました。そして、福島と京都を拠点にして生糸の商売で商才を発揮して、横浜から生糸を輸出するなどして大成功しました。
明治2年(1869年)に井筒屋本家から分家(子会社創立)を許され、そのあと、鉱山経営に乗り出したのです。

西南戦争で西郷隆盛が死んだ明治10年(1877年)に、古河市兵衛は業績不振が続いていた足尾銅山を4万8380円で買い取りました。古河は、欧米の新技術を導入して、鉱脈を探します。彼は日本で最初の水力発電所を建設して坑道の内と外を電化しました。それによって、足尾銅山の価値は飛躍的に高まりました。明治20年(1887年)には日本の銅の40%を産出して、古河は日本の銅山王の地位を獲得したのです。

ところが、明治23年(1890年)頃から渡良瀬川に鉱毒が流出して、国会議員だった田中正造が帝国議会にこれを訴えました。田中正造の明治天皇への直訴未遂事件(1901年)のあと、明治政府は「鉱毒除外予防工事命令」を発しました。古河市兵衛はその実行に事業の命運をかけて取り組んだのです。

この工事を終えたあと、市兵衛は急激に疲弊して、明治36年(1903年)に72年の生涯を終えました。古河市兵衛が創業した足尾銅山の開発会社は、その後事業の近代化、多角化を進めて、古河電工、富士電機、富士通などを含む古河グループになっています。


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古河市兵衛

古河市兵衛の功績

古河市兵衛が足尾銅山の開発に新しい技術を導入して、電化を行なったことは、明治22年(1891年)に琵琶湖疏水の水力発電によって京都の街を電化した田辺朔郎よりも早い快挙でした。

また、足尾銅山は電化したことで、日本で初めて電話が敷かれました。鉱脈をダイナマイトで爆破するときなどに、電話で連絡をとりあうことで坑夫の安全性が飛躍的に向上したそうです。地獄の入り口で穴堀りをする坑夫たちは、市兵衛の商才により守られていたのです。

ところが、こうした市兵衛の多くの功績は、田中正造の正義の影に被い隠されてきました。市兵衛は次のように書き残しています。
「鉱毒予防命令が出て、その命令どおりに工事が行なわれたが、それによって鉱毒問題は解決しなかった。それで政府は鉱毒調査委員会を設置して、その勧告にしたがって、渡良瀬川改修工事が行なわれた。鉱毒問題に解決を与えたものは、渡良瀬川の治水工事であった」

林竹一は「古河は鉱業停止を鉱毒予防命令にすりかえることに成功した」と書いているが、それは現在のモノサシで見た評価であり、私はそうは思いません。もし鉱業停止になっていたら、足尾銅山の坑夫たちは失業し、古河鉱業も倒産して多くの人が影響を受けていたはずです。なにより明治政府の国策により工業化、富国強兵を目指していた時代に、日本一の産出量を誇る銅山を国が閉鎖することはなかったでしょう。

古河鉱業の足尾銅山は、明治から昭和にかけて日本の近代産業の発展と、都市文化を育むことに貢献しました。産業の発展と都市文化を求めたのは、多くの都市生活者たちです。足尾の銅の生産による多くの利益は会社だけにとどまらず、間接的に都市住民にも行き渡っているのです。

都市生活を発展させるために、地方の生産地の労働者や農民、漁民が苦しみ、古河市兵衛のような事業主も苦労を背負っていた時代だと言えます。彼らの苦労から恩恵を得ていた当時の都市住民は、現地の犠牲者の悲鳴には耳をふさぎ、目を閉じるしかなかったのかもしれません。

もちろん、足尾銅山の古河鉱業は地元住民に財をもたらし、栃木県足尾町(現日光市)は企業城下町として賑わいました。その反面、公害の被害者、犠牲者と家族の苦しみは長年にわたるもので、心の傷が癒されることはなかったかもしれません。

平成という時代を生きる私たちは、足尾銅山から始まった日本の工業化により、先進的な技術を駆使した工業製品を売り、現在、ありあまるほどの食料を手にできたのだと考えることもできます。


渡良瀬遊水地に眠る谷中村

霞ヶ浦(土浦)を出発した私たちは、国道354号線で利根川の上流に向かい、古河の町外れで渡良瀬川にかかる三国橋を渡りました。そこは、茨城県、栃木県、埼玉県、群馬県という4つの県の境界線がクネクネと入り組んでいる珍しい地域でした。昔からのたび重なる洪水で川筋が何回も移動したのでしょう。

広大な渡良瀬遊水地には谷中村役場の跡地があります。明治時代に谷中村があった場所は、ダム湖に水没したわけではなく、広大な湿地帯になっていました。田中正造が谷中村を水没から守るために明治政府と対決した当時を物語るものは何もありません。見渡すかぎり人造の湿地帯と貯水池です。

犬の散歩をしたり、レンタル自転車で遊水地内の堤防をサイクリングしたり、役場の跡地を囲む芝生の公園でピクニックや昼寝をするレジャーの風景が広がっていました。まるで、どこかのニュータウン内の公園のたたずまいです。花が散った柳の木、赤紫の実をつけた桑の木が並ぶ光景が、かつての谷中村をかすかに想像させてくれます。

驚いたことに、渡良瀬遊水地のヨシ原は北海道の釧路湿原についで日本で2番目の広さだそうです。まるで大自然に恵まれた水辺のようです。しかし、ここは足尾銅山から流れてきた鉱毒による公害が作り出した人造の「公害モニュメント」です。明治時代に遊水地を建造する国策工事を知ったら大反対したであろう現代の自然愛好家やエコな人々が、現在の渡良瀬遊水地を自然の楽園、野鳥の宝庫として肯定するのは、ほほえましく、胸が熱くなります。

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明治政府にとっては都合の悪い存在、それが渡良瀬遊水地です。ここにあった谷中村は足尾銅山鉱毒事件のために、明治政府や栃木県庁によって強制的につぶされて、遊水地にされたのです。

また、東京湾に流れていた利根川の流路を太平洋に流れるように造り変えたのは徳川家康だとされています(利根川東遷)。しかし、本格的な工事で現在の姿にしたのは明治政府です。渡良瀬川は利根川に合流します。その水が東京に向かうのはいろいろまずかったのでしょう。都市と田舎の優先順位が見えてきます。

田中正造が明治天皇に直訴しようとして未遂に終ったのは1901年です。明治維新が1866〜1868年なので、江戸時代が終わってから30年くらいしか経っていません。明治政府はその間に急速な工業化、都市化を進めたのです。

谷中村役場の跡地には見上げるほどの桑の大木が木陰を作っていました。田中正造はつぶされる直前の谷中村にわざわざ移住していました。あるとき村に戻る途中、栃木県佐野市で病気のため寝込み、「現在を救いたまえ、現在を救いたまえ、ありのままを救いたまえ」と叫んで意識不明になり他界しました。

静かな農村だった谷中村がつぶされてできた渡良瀬遊水地、そこに立ち並ぶ桑の木のそよぎは、田中正造の声を私たちに伝えているように感じられました。現代の私たちの暮らしは、あまりにも恵まれていて、正造の悲痛な叫びを聴くことなどできません。

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第6回 足尾・渡良瀬(1)田中正造
自然環境よりも工業化を優先

栃木県の足尾銅山に行ったことはありますか? 私(升)は霞ヶ浦について考えていると田中正造を思い出すことがあります。足尾銅山の鉱毒被害を明治天皇に直訴しようとした人で、教科書にのっていたのでご存知でしょう。

明治時代に足尾銅山から渡良瀬川に流れ込んだ鉱毒で、かつて清流だった川は無生物状態になりました。それどころか流域の人間にも害があってひどい状態だったといいます。

霞ヶ浦でも魚や水生植物の生存権など軽く無視されてきた歴史があります。決定権のある人には、それ以上に優先すべきことがあったのでしょう。渡良瀬川の鉱毒は極端な例ですが、日本全国のいたるところで、似たようなことが起きてきたし、今も起きています。

高度経済成長のあと現在までの開発によって、海や川や湖で魚の自然繁殖が激減しました。それを補うために各地で放流魚が増えて、海や川や湖が釣り堀化しているという見方があります。

海ではヒラメやマダイの稚魚放流が行なわれています。これはまるで漁業の稲作化です。日本の水産学は農学と同じです。釣り人にとって魚はさまざまな充足を与えてくれる釣りの相手ですが、農林水産省の管轄において魚介類は食料品にすぎないのでしょう。

私(升)が研究室をかまえていた静岡県下田市の鍋田湾では、ここ20年でキスが激減したと職員が口をそろえます。千葉県の銚子では知り合いの漁労長がイワシが減ったと言います。銚子の近所でできるカレイ釣りといった楽しみも消えつつあります。だいぶ前から潮干狩りのアサリも韓国や中国から輸入したものを放流して掘らせています。中国大陸や朝鮮半島から動植物をもってくることは最近始まったことではなく、2千年間続けてきたことです。

こうして挙げていくと、日本の沿岸や河川、湖沼から魚介類が激減していることが分かります。私は1975年頃を始まりにして、日本の水圏生物の多様性と生息数が減り始めたと実感しています。ベトナム戦争でアメリカが敗け、田中角栄率いる自民党政権によって日本列島が改造され始めたころです。(『日本列島改造論』は1972年に刊行された)。

高速道路網、新幹線網が広げられ、空港、国際港が各都道府県に整備されました。全国各地に工業地帯が拡散して、農民は食料生産をやめて工場や企業で働くようになり、自動車は1人1台になりつつあります。

そのころから川や海に稚魚や養殖魚が放流されるようになったと感じます。言い換えれば、自然のままでは魚が子孫を残せない状態に至るまで自然が改造された。人間が魚を補充しなければ、釣りが成り立たない時代になったということです。

川の釣り堀化が進み、山里や里山の川で、養殖イワナ、ブラウントラウト、レインボートラウトが放たれ、釣り人を楽しませています。イワナは山深い渓流に棲むからこそ渓流釣りの価値があったのに、私(升)に言わせれば釣り堀化は伝統のブチ壊しです。

もともと日本の釣りには、国民の動物蛋白源を確保するといった意味がありました。日本人の釣りには食を得るという漁獲そのものの喜びもあるのかもしれません。40年くらい前は、母親の乳が出ないから父親が川でコイを獲って食べさせたら乳が出たとか(赤ちゃんが生きのびた)、病弱の母親にウナギを獲って食べさせ看病したとか、お爺さんお婆さんの死に際にシジミを獲ってシジミ汁を飲ませ、それが最後の食事になったというような話が日常的に聞かれました。

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田中正造(たなか・しょうぞう)。1841年(天保12年)生まれ、栃木県佐野市出身。栃木新聞の編集長、栃木県議会議員を経て、国会議員を6期つとめる。1901年(明治34年)に議員を辞職し、その年の12月に東京の日比谷で明治天皇に直訴しようとして失敗し、狂人扱いされ釈放。その後、貯水池(現在の渡良瀬遊水地)になる予定の栃木県谷中村に住み、強制廃村のあとも住み続け、1907年に強制退去。1913年(大正2年)死去(71歳)。

田中正造

吉田さんは子どもの頃のことを思い出して言いました。
「1951年(昭和26年)生まれの僕が幼いころ、90歳の老人は江戸時代生まれでした。僕が少年期に釣りを教わった古老たちは、皆さん明治生まれです。日露戦争に従軍した退役軍人だというお爺さんもいました」。

イギリスの産業革命(1760〜1830年に進んだ工業化)のあと科学が発達して、日本も明治政府になると富国強兵をスローガンにして工業先進国を目指しました。

その後も発展を続けた科学の力で現代の私たちは快適で健康的な暮らしができるようになったと、教科書に書いてあります。科学は人類の叡智ですと先生が教えます。よく考えると、科学はヒトが汗水流さなくても衣食住が得られる手段です。だから正義として扱われてきたのでしょう。

科学の延長線上にある、遺伝子操作によって、里山の川でも繁殖できるイワナを作りかねませんが、それは行き過ぎであり、非道徳的な発想だと私は思います。

里山という美名に飾られた真四角な水田の風景。竹林や杉林からの水を貯めるダム湖。ダムから放水された川、その水系にある小川で、遺伝子組み替えイワナを釣る。農薬と化学肥料で製造した米を原料にした日本酒を飲みつつ、秋月を眺めて養殖イワナの塩焼きを楽しむ……、実に科学的な花鳥風月です。しかし、私はそんなものに興味はありません。

日本人は武士という言葉が好きで、刀は武士の魂などと言います。少し考えれば、武士とは、農民漁民といった生産者から武力で不労所得を得て暮らす階層だとわかります。他人は利害と恐怖でしか動かない。武士の刀や武力は搾取するための道具です。強者の理論で弱者から搾取してきたのが人間の歴史であり文化だったりするわけです。

「升さん、田中正造っていったい何者なんでしょう。弱者なのか、強者なのか、搾取する側なのか、される側なのか……」

田中正造は栃木県の名主のお坊ちゃんで、明治時代に衆議院議員になれた人物です。ただし、自分は百姓であることをつねに旨としていたようです。

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名主の家に生まれ育ったという田中正造の生家。栃木県佐野市小中町


「升さんは他人は利害と恐怖でしか動かないと言いましたが、田中正造を動かした足尾銅山の鉱毒被害は恐怖ですか、それとも利害ですか? 鉱毒は害ですが、田中正造自身にふりかかる恐怖でも利害でもない。自分は裕福なのに弱者のためにわざわざ泥を被ったということでしょうか。現在の価値観からしたら、どうかしてるんじゃないかと思われかねません」

田中正造は1901年(明治34年)に議員を辞職し、その年の12月に東京の日比谷で明治天皇に直訴しようとして失敗。狂人扱いされ釈放された。その後、貯水池(現在の渡良瀬遊水地)になる予定の栃木県谷中村に住み始め、強制廃村のあとも住み続けた。1907年に強制退去。最後は地位も金も失って、農家の庭先で生き倒れ状態になり、その農家で亡くなった。最後に所持していたのは、小石3つ、日記、聖書などだけ。

田中正造の行動は、現在の価値観や学校教育上にとっては好ましくない人物でしょう。裕福な家の娘や息子、また偏差値が高い「順調な子」が田中正造を見習ったら親は困るはずです。世の中の先生たちが、倫理的、道徳的で人に尽くす人物になるための教育を始めたら、進学塾も予備校も、東大もビジネス的に崩壊です。経団連も霞ヶ関のお役人たちも怒り狂うでしょう。


明治時代を内部告発

日本でも内部告発した労働者を保護する法律(公益通報者保護法/2006年施行)ができました。悪事をはたらく公務員や警察の上司、会社の重役の行為を告発したあと、告発者が(和を乱したとして)ひどい目にあわされるから、告発者を保護する法律です。つまり、悪事を告発した人は組織内で潰されてきたのです。内部告発は善を成し悪を敗るはずなのに、善が悪に連敗していたのが日本社会ということになります。

田中正造は富国強兵の道を突き進む明治国家そのものを内部告発した人物です。だから狂人扱いされたり、投獄されるなど、ひどい目にあわされた。

「升さん、田中正造は面白そうですね。足尾銅山に行きましょう。渡良瀬遊水地も見てみたいです。将来の霞ヶ浦も渡良瀬遊水地と同じような運命にある気がして、この目で確かめたいのです」

宮城教育大学の学長だった林竹二氏は1976年に出版された著作『田中正造の生涯』の冒頭で記しています。
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 1962年に『思想の科学』が、歿(ぼつ)後50年を記念して、田中正造を特集したときには、田中正造は一般にほとんど忘れられていた人であったが、今日では彼はひどく有名な人物にされてしまった。だが、それは公害問題が喧(かまびす)しくなったおかげで、けっして田中正造がよく知られるようになったわけではない。田中正造は今日でも依然として知られざる人である。田中正造は、小説や劇作家には好個の題材であるのに、その研究は乏しい、これはどうしたことだろうか。
 (中略)
 彼は議会入り早々鉱毒問題に出会った。彼は被害者が鉱毒のために滅びることを救うために、ひとすじに鉱毒停止を求めて戦った。十年そのために議会で奮闘した。だが無駄だったのは、それが鉱毒問題を通して正面から明治国家に対決する行為であったからである。(引用終わり)
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田中正造は教科書に取り上げられる人物になり、足尾銅山の鉱毒問題への取り組みが評価されるようになった。しかし、依然として知られざる人物である、と林氏は出版当時に感慨を述べている。

その頃の日本社会は、水俣病など公害をめぐる裁判や議論が盛んになり、田中正造がクローズアップされた。しかし、彼がしたことの意義についての研究や、科学的な評価はなされなかったようだ。次回、いよいよ足尾銅山に向けて出発します。


第5回 霞ヶ浦のたび「浮島」

霞ヶ浦・浮島地区の丘に天皇が!?

私たち釣り人は、釣りの知識や技量は人一倍あるけれど、多くのことについて勉強する必要があります。吉田幸二さんと私(升)は自分たちが暮らしている霞ヶ浦を見直す旅に出ました。

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霞ヶ浦・浮島地区にある丘。野田奈川と本湖の和田岬の間に位置する。

その日、私たちの車は、霞ヶ浦の南岸、浮島地区の県道を走っていた。旧番地は茨城県稲敷郡桜川村浮島です。
「吉田さん、車を停めて寄り道しましょうか」
「升さん、これは里山ですか?」
「まあ、登ってみましょう」
私たちは人工的に造られた古墳とも思えるような、周囲200mほどの円錐形の丘を見上げていた。ふもとから階段を上っていくと、頂上に石碑があった。

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「吉田さん、これは古代、紀元前後に140歳くらいまで生きたとされる景行天皇がここに巡幸(天皇が各地を巡ること)したとする記念碑です」
「升さん、景行天皇は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のお父さんでしたっけ?」
「そうです。常陸国風土記(720年頃)に、この土地、信太郡についての記述があり、景行天皇が浮島を巡幸したとあります」
「そこに書いてあることは事実なんですか?」
「常陸国風土記は、土地の古老の言うことには……、という書き出しです。昔々あるところに……、というのと同じですよ。常陸国風土記は713年に元明天皇の命令によって、諸国の郡郷の名の由来、地形、産物、伝説などを記して撰進(せんしん/文集を編集して天皇に奉ること)させたものです。原文に近いもので残っているのは出雲国風土記だけです。常陸と播磨の風土記は一部が欠けていて、豊後と肥前のものはかなり省略されて残っている程度です。そもそも日本武尊のことなどは伝説めいてます」。

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昭和4年に旧日本軍が建てた石碑。

この石碑そのものは、旧帝国日本軍関係者が建てたとされる。戦勝祈願、霞ヶ浦航空隊員の奮起、特攻隊員の死への覚悟、そうした意味の石碑であり、今は忘れられ荒れ果てています。
「石碑に、昭和2年陸軍大演習と書いてありますよ」
「昭和2年に茨城県八郷町を満州東北部にみたてた大演習がありました。そのときの記念碑でしょう。中国大陸に植民地を広げるフロンティア戦争のための戦勝祈願キャラクターとしては、古代の東日本を征服した景行天皇碑と息子の日本武尊の伝説はできすぎで、滑稽なほどです。でも、昭和2年の日本の若者は、8世紀の大和朝廷に仕える戦士の気分でいたのかもしれません。この石碑の目的は満州での五穀豊穰ですよ」
「古代に大和朝廷が東日本を征服したように、旧日本軍が中国大陸を征服しに行くという部分でイメージが重なるわけですね」
このように、霞ヶ浦のほとりをドライブしていると、突然、神話時代に関わりのあることに遭遇する。つまり、霞ヶ浦は古代、大和朝廷が東日本先住民の蝦夷を征服しつつある時代の最前線だったのです。
 

浮島は文字どおり島だった

丘の頂上から見渡すと低地に広がる水田のなかに、丘が点在してまるで古墳群のような地形。平地の水田に海水を満たしたら、瀬戸内海のように小島が点在する風景になる。
「約6000年前の縄文海進の時代は、海水面が今より4m前後高く、霞ヶ浦は海だったから、ここは小さな島々だったのでしょう。舟がないと生活できなかったはずです。舟といえば、昭和初期まで続いていた潮来あたりの水郷の生活は、えらく不便だったと思いますよ」

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約6000年前の縄文海進の時代は海面が4m前後高く、2人が立つ場所は海だった。


昭和初期の地図を見ると霞ヶ浦の「浮島」という地名は、その名のとおり島だったことがわかる。戦後の食料増産と稲作のためという理由で、浮島の周りは干拓工事によって陸地化され、農地化されて島ではなくなった。現在は建築や道路建設の資材置き場や、雑草の生い茂る雑種地、産業廃棄物の仮置き場になっている。

石碑の周囲にはドングリの実がたくさん落ちていた。この周辺は房総半島や伊豆半島と同じように、ヤブツバキ、カシなど照葉樹林が多い。かつて霞ヶ浦は海だったので周辺は稲作には適さず、水田を維持するための雑木林は造られなかったらしい。照葉樹林は一年中その葉が繁るので、太陽の光がさえぎられて地表は照らされることがないから土壌の栄養は落葉樹林に比べて乏しい。

その反面、秋に紅葉して葉が散るシラカバ、ブナ、クヌギ、コナラ、ミズナラといった落葉樹林帯は、冬は日差しに恵まれる。落葉樹の地面に積もった落ち葉は、昆虫の幼虫や土壌線虫、ミミズなどが食べて糞をする。キノコ、山菜、土壌微生物や原生動物(原虫)も落ち葉を栄養にして増殖する。次にこうした微細な生物をエサにする虫たちが増えて、その虫を食べる動物も増える。微生物が落ち葉を分解すると植物の肥料になるチッソやリンが発生し、それが土の中に増えると植物の多様性が得られる。さらに、昆虫を食べる鳥類、ウサギ、野ネズミが繁殖し、それらを狙う猛禽類も繁殖して動物の多様性が得られる。


カモシカは誰が運んだのか

古代の日本列島には鹿(ニホンジカ)が多かった。また、カモシカはシカ科ではなくウシ科の哺乳類であるが、この落葉樹林帯の食物連鎖のなかで数多く生息していた。カモシカは日本と台湾の特産で、山地の森林に生活し、険しい崖でも巧みに上り下りする、日本の特別天然記念物だ。

東南アジア・スマトラ島にはよく似た種類のスマトラカモシカがいる。現在カモシカが日本と台湾の特産であることは、古墳時代、3世紀末から7世紀に日本に渡来してきた外来人たちの仕業であると疑いたくなる。カモシカが自力で海を泳いで日本に渡って来たとは思えない。

キョン(小型のシカ、日本にもいる)はシカ科のキョン亜科キョン属の哺乳類で、中国南部と台湾に分布する。キョンも海を泳いで渡ってくることはない。しかし、こうした動物が日本の固有種だという人がいる。地殻変動によって日本列島や台湾が大陸から分離した40万年前から日本に生息していたという、そんなおとぎ話のような生物学を語る者があとをたたない。

日本列島はガラパゴス諸島とはちがい、約3万年前の旧石器時代からヒトの手垢にまみれてきた。
「生物のそれぞれの種は神によって個々に創造されたものではなく、極めて簡単な原始生物から進化してきたものである」とするイギリスの生物学者ダーウィンの進化論は「神への感謝」をシラケさせた。しかし、動植物やヒトの生命を差別することが愚かだとする根拠を示したダーウィンの説は、神父が伝える神々が言うヒトの平等や、僧侶が伝える仏道の平等よりよほど信頼できると思う。


霞ヶ浦の特産物は砂利

霞ヶ浦から採取されている湖底の砂利は、2万年以上前に鬼怒川(古鬼怒川)が現在の桜川の流路で霞ヶ浦に流れ込んでいた時代に、現在の栃木県日光周辺の山々から運ばれてきたものだ。霞ヶ浦産の砂利という資源は、土木工事や建築資材として流通し、霞ヶ浦で獲れる水産物よりも高収益をあげている。

現代の霞ヶ浦には、生活排水や畜産排水により、チッソやリンが流入してきた。そして水質の富栄養化により植物プランクトンのアオコが大発生した。やがて富栄養化対策が効を奏しアオコは終息したが、農薬や生活排水からの化学物質汚染がひどくなり漁業資源が死に絶えはじめた。ワカサギのエサになるユスリカの幼虫が激減し、ワカサギの稚魚を放流してもロクに育たない。いまや霞ヶ浦の主な産物は湖底から浚渫された砂利である。

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沖の湖底から掘り出した砂利を港で洗って出荷する。撮影地は土浦新港

今、私たちが霞ヶ浦の湖畔に住む古老に話をきくと、かつて霞ヶ浦の水は透明で、魚介類も豊富にあり、農産物の生産も充実して、生活に躍動感があったと教えてくれる。古代に書かれた『常陸国風土記』のなかで古老が話す霞ヶ浦の漁民の暮らしぶりは、現在の古老が伝えてくれることと大差ない。これはとても重要なことだ。

つまり、霞ヶ浦の水が濁り、魚介類が激減したのは、霞ヶ浦に暮らすヒトの数千年の歴史のうち、戦後のごく最近起きたばかりの大事件なのです。それほどの急激な変化があったにもかかわらず、現代の湖畔に暮らす人々が大騒ぎしないのは不思議なことだ。

戦後、高度経済成長期以後の日本は、工業先進国として最先端工業製品を外国に売って、そこで得られた外貨で、外国から食料を輸入している。だから湖畔民も霞ヶ浦からとれる魚介類が消滅しても痛みは感じない。今となっては霞ヶ浦の産物の充実がもたらす、湖畔生活の躍動感など、古老の郷愁にすぎない。若者の多くはハンバガーやフライドチキンが好物であり、霞ヶ浦からとれた魚介類の佃煮や甘露煮は、ドーナツやピザには対抗できない。
(つづく)

次回は、利根川水系の支流、渡良瀬川の上流にある足尾銅山を旅します。



第4回 アイヌ支配と霞ヶ浦の生い立ち
北上する稲作

外来の稲作を根幹とした移民のフロンティアスピリット、それが在来の日本列島人を征服しながら北海道まで北上したことが、日本史の根底に流れていることは前回述べたとおりです。

稲作が日本に伝わってから千数百年後、平成になったころ、朝廷は稲作に適さなかった北海道まで稲穂で覆うことに成功しました。しかし、すでに昭和末期には、生産された米のすべてを国が買い上げることができなくなります。高度経済成長後の日本は工業製品を海外に売り、その利益で世界中から食料を輸入するようになって、史上初めて米が余ってしまったのです。しかたなく百姓に「米を作らないでくれたらお金を与える」という減反政策(米の作付け面積を減らす)を始めました。これは歴史上類を見ない奇策です。

米作りを止めさせるための減反政策で農家(農協)に金を出しつつ、その一方で気候的には適さない北海道にまで稲作を広げるために莫大な国費(税金)を使い続ける。この矛盾した現実から、外来にルーツのある日本民族の水田拡大に対する異常なまでの執念を感じます。大和魂=稲作魂=フロンティアスピリット、これらは同義語のように思えます。
 
在来民族アイヌ

北海道という島はデンマークほどの広さで気候は牧畜に適しています。もしアイヌ人が、国という組織が好きな民族だったとしたら、明治政府からの土人扱いを免れて、畜産国として独立国家を建国することも不可能ではなかったでしょう。在来の先住日本人としてのアイヌはサケ、マスなどの漁や鹿や猪などの狩猟、野生植物の採集を主とし、アザラシやトド猟も行なって生きてきました。

江戸時代以後、松前藩(北海道南部)による苛酷な支配と、明治政府の開拓政策、同化政策により、アイヌ民族固有の言語、慣習や文化の多くが失われました。そうした政策のもとになった差別的な「土人保護法」が廃止されたのは、なんと1997年です。あのバス釣りブームのころまで、こんな差別的な法律が見直されずに残ってきたことに驚かされます。アイヌ人がほぼ消滅する平成になるまで、日本政府がアイヌ人を法律で土人と言い続けてきた事実は知っておいたほうがいいです。

アイヌは北海道、樺太(サハリン)、千島列島(クリール)に居住しており、近代は主に北海道に居住した先住民族である。アイヌの言語は系統不明であるとされている。さらに無礼なことに、人種の系統も明らかでないと書いてある教科書が多い。アイヌ語は、樺太、千島列島、北海道の三方言に区別される。今となっては日常語としてはほとんど使われず、少数の人が伝えているだけです。ナイ(沢)やベツ(川)で終わる言葉が多く、北海道や東北地方の地名の多くはアイヌ語が起源になっています。

人種の系統はどうか? ツングースは、シベリアのエニセイ川、レナ川、アムール川流域やサハリン島、中国東北部にかけて広く生活する民族です。狩猟、漁労、採取、トナカイ飼育などが生業です。先住の日本人(在来種)はこの人たちと近縁のようです。

ツングースがトナカイを飼育するのと同じように、先住の日本人がカモシカを飼育していたとしても不思議ではありません。トナカイは「馴鹿」と書く。この漢字の意味するところを考えてほしい。また、なぜだか知らないが、トナカイはキリスト教の儀式であるクリスマスにサンタクロースが乗るソリを引くことになった。シカ科の哺乳類はキリスト教文化圏でも人間に飼育されていたのです。トナカイは北極圏を取り巻く地域に広く分布し、北ヨーロッパやシベリアでは古くから家畜化されていました。アイヌの言語と人種的系統については以上です。

このことが広く知らされていないことは、稲作至上主義で組織的な農耕が好きな外来ルーツの日本人のなかに、先住日本人の釣り、狩猟、採集生活を非文化的であるとする思想が現在まで続いていることを意味するのかもしれません。

 釣り文化の扱い

日本における「釣り」は先住の日本列島人だった蝦夷やアイヌのリベラルな生活手段であり文化でした。稲作を広めるために仏教を普及させた大和盆地の価値観のなかでは、釣りが文化として認められる土壌はなかった。むしろ、釣りは律令制や太閤検地の対象から漏れた賤民的な扱いだったのかもしれません。

以前書いたように、茶道、生け花、能楽など現在いわゆる日本文化とされるものは、もともとは朝廷、貴族、僧侶、武士といった権力者たち、エスタブリッシュメント(国家の意志決定や政策形成に影響力を及ぼす支配層)たちの文化でした。社会生活の中枢となる都市や領土をもち、民の国籍、他の意思に支配されない国家統治の権力を備えた「中央集権的な国家」によるものです。

そのような体制をもたなかった先住日本列島人の文化は、漁労や狩猟に関することを主体としていたが、彼らの文化や価値観はごく一部の例外のほかは現代に伝承されなかった。それらは、稲作の価値観に上書きされたからです。このことは現在の皇室に田植え、稲刈り、鴨猟などの儀式はあっても、釣りに関することが伝承されていないことからもうかがい知ることができます。

平安貴族の和歌は500年後の江戸時代に俳句として庶民文化になりました。田楽、能は歌舞伎になりました。一方、釣りはもともと宮中のことではなく最初から庶民のものであり、法律による縛りが及ぶものではなく、したがって、釣り文化は先住日本人由来の文化として伝承されるべきものであり、他人に迷惑をかけないかぎりにおいて作法に縛られるものではないはずです。

文化というものは文徳(学問を修めることで身にそなわる人格)で民を教化することだから、作法に縛られないようなもの(釣り)は文化的ではないとする考え方もあります。私たち釣り人はそのような意見は無視して先に進みましょう。
 
20万年前の霞ヶ浦

霞ヶ浦のことを話そう。

明治以降の日本では湖の広さの順位が入れ替わってしまうほど地形の変化が激しい。その変化は自然の地殻変動や海面の水位変動によるものではなく、土木工事による改造であることを日本人は知っておくべきです。改造の歴史を知ることは、21世紀を生きる日本人の「環境感覚」に必要な基礎になります。遠い未来の人たちは、20世紀は石油科学による戦争の大規模化と、大量消費を美徳とする時代であり、21世紀は水の時代だったと、歴史の教科書で学ぶことになるかもしれません。

では、明治以前の霞ヶ浦の地殻変動と海面水位の変化の歴史はどのようなものだったのか。今から約20万年前の更新世中期には、霞ヶ浦は関東地方に広がっていた古東京湾といわれる海の底でした。更新世とは約170万年前から1万年前までのことです。更新世の期間に、地球上に広く氷床が発達した氷期と、現在のような温暖な間氷期とが繰り返されました。

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約20万年前の関東地方。霞ヶ浦は古東京湾といわれる海の底だった
(以下の画像は国交省霞ヶ浦河川事務所HPから引用)

その後、古東京湾に堆積した土砂によって浅い海底が陸地化しました。これが現在の霞ヶ浦周辺に広がる標高20〜40mの台地のもとになった地形だと国土交通省霞ヶ浦河川事務所が解説しています。この台地は砂地で成田層群と呼ばれます。

成田層群が堆積した後で、海面が後退(水位が低下)して平野が生まれました。この平野はすぐに下方浸食(地表が自然現象により削り取られること)を受けて、谷底平野が形成されたようです。現在の霞ヶ浦周辺の台地に刻まれている幅広い谷底平野はこのときできました。西浦に流入する桜川周辺の低地もそのひとつです。桜川には、かつては古鬼怒川が流れていました。現在霞ヶ浦の湖底から採取される砂利や石は、栃木県の那須や足尾あたりの山々から古鬼怒川によって運ばれたものらしい。

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約13万年前
 
2万年前〜現在の霞ヶ浦

約2万年前は、氷期のピークになり大陸に厚さ数千メートルの氷床ができて海面が低下した(マイナス100〜130m)。この頃の日本列島は北海道と九州で大陸と地続きだったとされる。霞ヶ浦では河川からの流入水によって浸食(地表が削り取られること)されて、霞ヶ浦水系の流入河川がほぼ現在のような形につくられた。こうして西浦・北浦の湖のもとになる盆地が形成されました。この時期は、古富士火山(富士山のもとになった山)などの火山活動が活発で、霞ヶ浦周辺の台地上には火山灰が厚く積もった。これが関東ローム層と呼ばれている赤土の層をつくりました。

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約2万年前。氷河期のため海水面が100m以上低かった

その後、約6千年前には、縄文海進と呼ばれる海面の上昇(現在より4m前後高い)で、谷に沿って海水が進入し、大規模な入り江が形成されました。この海進によって湾岸での浸食が進み、その後沖積層(海進に伴って海や谷を埋め立てた礫・砂・粒土・貝化石などからなる堆積物)が厚く堆積しました。そして現在の霞ヶ浦・北浦の輪郭が形成されたようです。

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約6000年前の縄文海進。海面が現在より4m前後高かった

その後、海面がしだいに後退(低下)して、湾岸には現在見られるような幅の狭い平野が形成されました。8世紀(700年代)になると、霞ヶ浦一帯は、今の利根川下流に広がっていた香取海の入り江のひとつとして「香澄流海」と呼ばれていました。『常陸国風土記』(720年頃成立)で伝えられる霞ヶ浦の景色は香澄流海のものです。

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今から1000年以上前の西暦700年代。霞ヶ浦は香取海の入り江のひとつ香澄流海だった。720年ごろ編まれた『常陸国風土記』に当時のようすが書かれている


香澄流海の面積は現在の霞ヶ浦の2〜3倍あり、毎日海水が出入りする広い入り江でした。その後、鬼怒川や小貝川が運んできた土砂などが現在の西浦や北浦の湾口に堆積して、現代の地形に近づきました。こうした地形の変化で作られた「香澄流海」のほとりに、朝廷が常陸国府(現在の石岡市)を置いて、『常陸国風土記』を編集し、奈良(大和朝廷)から伝わってきた仏教を支えました。

もともと江戸湾(東京湾)にそそいでいた利根川の流路が現在の位置になったのは、江戸時代初期の約60年間(1594年〜1654年)に行なわれた「利根川東遷」と呼ばれる改修工事の結果だとされています。その目的は江戸を利根川の水害から守り新田開発を促進すること、舟運の航路を開いて東北と関東との輸送システムを確立することでした。この大工事によって利根川が現在の位置を流れるようになり、霞ヶ浦は利根川が運んできた土砂によって河口部分がせき止められました。そして日本で3番目に広い汽水湖になったのです。

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利根川東遷事業とは東京湾に注いでいた利根川を太平洋に流す工事

ところが、日本で2番目に広かった秋田県の八郎潟が、戦後の1957年以来の干拓工事(稲作などのため農地化)によって人工的な「八郎調整池」に改造されて水面の面積が狭くなりました。その結果、霞ヶ浦が2位になったのです。

さらに1961年、霞ヶ浦と太平洋を結んでいた常陸川に巨大なゲート(逆水門)が造られ、霞ヶ浦水系はダム湖に改造されて淡水化が進められました。しかし、霞ヶ浦周辺の井戸水には、今でも薄いお吸い物ほどの微量な塩分が含まれているそうです。また、霞ヶ浦では成育に塩分を必要とするイサザアミが漁獲されています。

こうして見てくると、人間の歴史は地球規模の地形変化と気温変化に支配されていることがわかります。
(つづく)






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